無
始まりはどこからだっただろうか?
こいつと出会ってから、嫌、始まりなんてどうでもいい。今は終わりの瞬間を迎えて、この世で最たる憎たらしい「悪」という存在を叩きのめしたという、解放感と漠然とした罪悪感が胸に途方なく散らばっているだけだ。
目下の床に仰向けに転がっている、この存在を有していた男は、何か定義を特徴として当てはめろというなら「悪」という一文字が何よりお似合いの低俗な奴だった。常に職場では誰か敵を定めて陰険に自分の立場を利用しては口を挟み、挙句そいつが根をあげて発狂するか、逃亡するまで追い詰めてやろうという、陰湿で執念深い下劣な性質を持ち備えている奴だった。いや、恐らくその行動自体が奴にとって、ただの趣味だったのだろう。
自分の仕事以外の全ての残された時間を自分の獲物と見なした人物の観察に割いて、相手の仕事のヘマをいつ何時でも見逃さまいと、あからさまに狙われた本人が意識せざるをえない、濁って汚れた視線で見届ける。そして時には優しく、時には見下した冷酷な一言で相手のミスを付き、その後もまたひたすらに目線を離さずに追走する。仕事のミスを指摘される事などより、その為に常にストーカーの如く憎しみを浮かべた目線で追われるこちらの身にでもなってみろ。
こういう種族の人間は決まって何か奥底に表面には出せない暗い陰湿な性質を根深く秘めて、また表面上では頑張ってか社交性を振りまこうとして、仲間はいるが心底からの親友はいない。加えて言うと自分の内面のドロ汚さを封じ込められずに何か機会があるごとに外に発散する物だから、十分に周囲から真なる気色悪い人間性を見抜かれている。皆、表には出さないが精神世界で嫌われ、また実際に遠ざかられる。別に俺だって人の事言えた義理じゃない。過去には弱者をいじめている仲間の一部に加わって悪ふざけした事もあったし、それが廻りまわって俺が同じ身に指し当たったというなら自業自得だろう。しかし奴の加える圧力は暴力でも集団でもなく、精神的に俺の世界に侵害を加えるような、兎に角、もっとも許しがたい陰湿で卑怯な圧力を毎日の如く加えてきやがった。
人を殺そうと思ったことは何度だってある。こいつが始めてではないし、最初はただ気の済むまでぶん殴ってやろうという端的な要求だった。後に、自分の身辺にどんな悪影響を及ぼす結果になっても、こいつを成敗しなくてはいけないのだという使命感を最後の方では作り上げていた。いわゆる殺すというイメージではなかったのだ。そう、正しくは半殺しだ。思う存分殴って、殴って、気の済むまで奴が泣いて謝りを請うてもそれでもついでに2,3発食らわして、それで立ちあがれないくらいの姿勢に崩して、綺麗さっぱりこの仕事とも、こいつとの関係ともお終いという段取りを描いていた。
チャンスは思ったより先に訪れ、狭い個室に呼び出した奴の方から、意図的に二人になる時間と空間を用意してきやがった。奴が先に入って待っていた部屋に、後に入室するまでの間にバッチリと空想とその実行の段取りを頭に、体中に力を籠めてドアノブを握り締めた。中に入るといつもの無愛想な奴の顔は少し不気味にほつれて見え、自分が前面に押し出していた憎悪の対象の雰囲気とは一種異なる様相を浮かべ、意外な事に談話の内容は和解であった。
互いに調和が上手くいかず、ずれている部分があるが、一つここは穏便に関係を築いていこう。不覚にも俺はこの一連の発言に一瞬、気を許しかけた。しかしなるべく無表情な顔立ちのまま話を全て聞き終えて、奴が俺に背中を向けて部屋を後にした刹那、俺はいまひとつ煮え切らないこの気持ちの原因の正体がぱっと掴めた。
こいつは俺を取り込む気だ。俺が自らに危害を加える意志を秘めている事を目ざとく悟って、自分の手じかに愛想良く手なずけてやれば安全を確保できるだろうという魂胆だ。
何て野郎だ。
それ以後、迂闊には奴との偽りの親交を築くのを拒み、遠ざかりながらも、すれ違った際や、顔を合わせた時はぎこちない笑顔を互いに振りまいた。一方では奴の妥協に納得しつつ、一方では奴に対する軽蔑の念が一層深まった。
決定的だったのが、個室の横の廊下を通り行く間に、個室からはっきりと漏れ聞こえた奴とその仲間との談話だった。その中で奴は、奴が主導的に俺の名前こそ挙げなかったが、はっきりと俺だと解る形容詞や文句を並べつつけなしあい、笑いの種にしている乾いた笑い声が俺の耳の中にしかと届けられた。耳奥から脳に笑い声が達して、決定的な脳からの指令。
「奴を殺せ」しかし理性の甲斐あって、廊下を通り過ぎてそのすぐ間もなくにも、イメージは殺人から成敗へと形を変化していった。
殴り倒す。思い切り気の済むまで、それで終わりだ。
後々の事など考えない。奴が仕返しに後に仕事場かないしは警察へこの不当な暴力を訴えたとしても、その時点で俺の気持ちは済んでいる。後は野となれ山となれ。俺の中であいつを、一度やりこめればそれでいい。それでイーブンだ。俺を甘くみたツケを払わせてやる。
それから更衣室で二人きりになる時間を待ち構えた。出来れば時間はたっぷりと用意されている方がいい。せめて5分。言葉はいらない。中で待っているのは暴力のみだ。それから指定した場所の更衣室にて二人きりになる時間を待ち構えたが、その時はなかなか訪れなかった。奴も進んで一人の空間を設ける事を避けているきらいがあった。
そこで俺は辛抱出来ずに奴を呼び出す策に切り替えた。これは名案だった。いつ何時、部外者が現れるか解らない帰宅時間前の更衣室にての暴行では、どこで行為が中断されるか解ったものじゃない。しかし都合の良い時間を計って、大事な話があるからと切り出して部屋へと呼び出せば、誰にも阻害される事なく、計画を実行に移す事が出来る。
そう、いつ何時でも。後は心構えだけだった。決心がつき、疑われぬよう表情を装って、奴を何とか呼び出して部屋へと招き入れ、後ろ手でドアノブを閉めたのが後戻りのない瞬間だった。奴の正面に振り向くのを今か今かと待って、やっとこちらを向いたが勝負。あらんばかりの力で打って、打って打ち負かそうとした。
一撃目は左手の腕と体で上手く防がれたが、機転を利かして左手で殴るふりをして、相手が右側を身構えた瞬間、右の拳が奴の頭部に炸裂した。ふらつく相手に威力のない左手の拳、そして中途半端な手応えの右の拳が顎に命中した。それだけで奴はあっさりと意識を失くして床に倒れこんだ。
ふざけるな、お前に貸した借りはこんなもんじゃないぞ。もうお手上げか、このへっぴり腰め。
一度付いた火の勢いは収まらず、簡単にのした奴の無様な姿に怒りの感情を覚えた。奴がふと立ち上がっては、また殴りつける想像を唐突に思い描いた。しかし奴は完全に意識を失ってしまったようだ。ピクリともしない。まさかな。冷淡に侮蔑の含み笑いを浮かべては、体のどこか一部に反応が起こるのを暫く待った。しかし丹念に体の周囲に目線を見張らしても些細な振動一つ起こす気配ない。不安が頭をよぎりつつ、倒れた男の体に近寄って、脈を測ろうかと考えた。しかし何よりもこの男の体に、触れるというのが嫌悪感と抵抗を催し、首に中指、人差し指二本押し込む行為にさえ逡巡した。
ようやく諦めがつき、仕方なく指を二本押せども、一体どこが脈なのかよく解らない。それで手っ取り早く手の脈を調べた方が早いという旨に気付き、実行に移そうとした。それでも尚やはりためらった。こいつの体には正直一切触れたくなかった。子供じみた様に、触れたら自分の体が汚れるのではないかとさえ考えた。嫌々、手首を持ち上げると、あてがう位置にぴったりと締められた腕時計のベルトが邪魔をして、脈がこのままでは測れない。ベルトを強引に横にずらそうとするが、むしろ逆に引き剥がそうとする力に反動してベルトは尚更きつく腕にくいこんでいく有様で、そのまま奴の手首を叩き落としたい気分が起こった。
ちらと、腕時計の針が目をよぎる。4時15分。ベルトを外す面倒から、もう一方の腕を拾い上げ、同じく二つの指を押し当てると、何の躍動感も無い気持ち悪い妙に柔らかい血管の感触だけが伝わってきた。手首を床に落として、慌ててやみくもに首先に指を押し当て、左手で自分の脈と同じ位置を確認しながら照合するも、同じ感触は伝わって来なかった。
死んだのだ。こいつはあっけなく、2,3発の殴打で。
憎悪と混乱とちっぽけな後悔の葛藤の渦の中で、体は立ち尽くしたまま抜け殻のような状態となった。そして時を隔てず今に至る。
どうしたら良いか?
憎しみはどこかへ放り投げ、今は起きてしまった、避けられなかったこの事故の処理に何とか努めなければならない。サスペンスドラマのようにどこかの地中や海の中へと葬り去ろうか。嫌、この予期せぬ殺人現場が何処かという事を己に聞いただけで、どれも現実味が薄れてゆく。
どうにもならない。終わりだ。呆然と立ち尽くして、思考に行動を抑制されてしまっている。
もしこれが夢だったなら―――――
夢だった。掛け布団の下で目覚めて、見渡すまでもなく窮屈なアパートの室内がベッドの上でうなされた身体を取り囲んでいた。
何だよ、全く。人騒がせだな。ああ、いつもの一日が、退屈な目覚めと共に始まってゆく。ベッドを後にして狭い部屋を右往左往して、朝食の準備と着替えを同時進行で手早く済まして慣れ親しんだ椅子に座り、トーストから中ぐらいに焼けたパンの出てくるのを待ちながら皿に盛った目玉焼きを食した。何も代わりばえのない平和な日常。俺も奴もしぶとくこざかしく周到に生きている。朝食を終え、支度を済まし玄関に向かう時には考えは改まっていた。
別に殴打する必要なんてない。あいつは形式上でも手を結ぼうと向こうから申し出て来たのだ。適当にへつらって気に食わなければ、適当な嫌がらせでも自己流でやってしまえばいい。見えない所で蹴りつけるも影口をたたくも気分のおもむくまま構わないじゃないか。どうせあいつに本当の味方はいない。誰もあいつに協力なんてしないさ、あいつはひとりぼっちだ。靴を履き玄関のドアを開いて外に出た。そこは更衣室だった。
何、これはどういう事だ、何?
思わず後ろを振り向いた。ドアは完全に閉め切られている。自分の手で。目の前には敵の死体が最前と変わらぬ姿のまま横たわっている。
夢?今見ていたのが夢だったのか? こちらが現実。俺は空想を巡らし続けて、現実逃避した自分の世界に逃げこんだのだ。
そして今ここに広がっている世界こそが……奴の手首を持ち上げて時計を確認した。時間は30分ばかり進んでいる。何てこった。さっきまで見ていた光景は白昼夢だったに違いない。そこまで俺自身が追い詰められていたなんて……
もう駄目だ。どうしようもない。これ以上事態が悪化する前に自首をしに行こう。
ここにきてある種の喪失感と、気持ちの動揺に介抱の一本筋のついた清々しさが、心を幾分か癒してくれた。さあ、この窮屈な部屋を出て、自白をしに行こう。そして……またしても目覚めた世界はベッドの上で、自分の部屋が優しく残酷に待ち構えている。
混乱? 嫌、おいおいもう俺は決心がついたんだ。もうこんな世界は必要ないんだよ。俺を解放してくれ、自白するよ。そして最後に・・・俺に安らぎを与えてくれる空間を今の内に用意してくれたことに感謝する。有り難うよ。
そしてそれは夢だった。更衣室の世界が正確に時間を刻みながら遅滞することなく、空間を先の世界へと推し進めている。
しかしそれもまた夢だった。
奴もトーストも更衣室もベッドも蝉も男も世界も存在も夢だった。
――――全てが夢だった。
了
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