幽霊達のひまつぶし

著:矢田誠義


     1、魔女の館

 その首を吊った、男女三人の死体が声を上げて笑い出したのは、多田修がこと切れた、その瞬間だった……。

 夏の真夜中。気まずそうな二人の男女が、小さな田舎町の小さなコンビニの前で並んで立っていた。
 男の方は、しきりに時間を気にして、さっきから何度も携帯電話の時計を見ている。
─―午後十一時五十七分。
 名前は、酒井京一。この田舎町にある公立高校の一年生だ。
 一八五センチもある身長の割に、体重が五六キロといったやせ型で、肌は健康的なセピア色。ブランドのロゴが入った白の大きなTシャツに、ごついチノ・パンを腰骨ではいている。白のバッシュも大きくは見えるが、全体的に見ておかしくもだらしなくもない。
 何と言っても、京一はモデルなのだ。着こなしがうまい。
 モデルといっても、パリ・コレクションとかミラノ・コレクション、といった有名なファッションショーに出てくることは、まずない。
 少しランクを下げて東京コレクション─―にもやっぱり出てこない。
 出てくることがあるのは、ストリートファッション誌とか─―いや、失礼。それだけである。
 典型的な美男ではなく、一般的に格好良い、といわれるタイプなのだ。
 学校の校則により、髪は黒色。
 そして、隣に立つ女─―原田恵もこれがまた美人。
 京一にくらべてやや低いくらいの身長で、そのてっぺんから背中の中央までのびたクリーム色の髪の毛は、つやがあり、くせが無い。あごが少し尖っていて、きつい目をしている。外国人の様なほりが少しあるせいか、目に嫌らしさは感じない。スカイブルーのカラーコンタクトもごく自然である。
 京一と同じやせ型で、どちらかというとこちらの方が一見した感じ、モデルに近い。
 恵もまた、京一と同じ高校の一年生なのだが、通う時間帯は異なって夜間。
 この二人がカップルなら、誰もがみとめるであろうが、つい三時間ほど前に、そうでなくなってしまった。
 恵が京一に別れを告げたのである。
 理由は、京一が他の女と仲よく(?)手をつないで歩いていた─―と、いうだけ。
 その現場を目撃した恵が、その場で浮気と即決。瞬時破局に至ったのだ。
 しかし、なんでまた、そんな二人が並んで立っているのかというと、名残惜しいから─―ではなく、この二人はそれぞれの友人とこのコンビニの前で、同じ時刻に待ち合わせをしてしまったのだ。
 しかも、肝試しをする、という同じ理由だった!
 変に意識して離れて立つのも何だかいやな感じがするし、肩を並べて立つのもおかしいので、こうしてごく普通に─―と、いうことは少しだけ離れて─―並んで立つことにしたのである。
 時計の針が、ちょうど午前一時を指す頃、二人の立つコンビニの五〇メートルほど前方に、恵の待ち合わせ相手である、中村沙矢が姿を現した。
 黒のタンクトップに、アーミーの迷彩柄のごついズボンをはいている恵に対し、沙矢は、キャミソールにマイクロミニをはいているので、女の子らしさが引き立って見える。顔はよく見えない。
 恵は手を振って歩き出し、京一はその後姿を眺めていた。─―いいくびれだよ。まったく。
 すると、京一の視線を遮る様に、京一の目の前に薄汚れたトヨタのハイエースバンが、左向きに止まった。
 ゆっくりと、助手先側の窓が下がる。
助手席には誰も乗っていない様だ。運転席には、鳶ニッカにロンT、ベストといった、鳶職スタイルの男が座っている。
 京一は中を覗きこんで、
「女は?」
と、男に訊いた。
「もうすぐ来るよ」
 と、男は答える。「乗りなよ」
 その言葉に京一は、助手席のドアを開けたが、男に、
「男が並んで座ってどうするんだよ」
と、言われ、無言で引き下がり、後ろのスライドドアを開けた。
 この下品な赤みがかった黄色の髪に丸い目を従えた、ニキビ面の男こそ、京一の待ち合わせ相手の辻浩幸である。
 京一が後部座席に乗り込み、スライドドアを閉めると、浩幸は、
「クスリ持って来てくれた?」
と、訊いた。
 京一は、ポケットからピルケースを取り出し、浩幸に渡して、
「エクスタシーとおまけ。─―それを売ってくれた売人が、おれの元カノの知り合いだから、まけてくれた上におまけまで付けてくれたんだよ」
 エクスタシーとは、新型合成麻薬メチレン・ヂオキシ・メス・アンフェタミン─―MDMAの通称である。
「おまけって何?」
と、ピルケースのふたを開けて浩幸は言った。
「赤色のカプセルが入ってるだろ。何のカプセルかはわからねえな」
「毒じゃないのか。怪しいぞ」
「そう思うなら捨てろよ」
「いや、それはマータイさんの意志に反する」
つまり、もったいない、ということだ。
「マータイさんなら、まよわず捨てると思うぞ」
と、京一が言った時、青光りしそうな黒髪にソバージュをあてた、目の大きい猫口の女が、運転席側の窓をノックした。中村沙矢だ。
 浩幸は窓を下ろすと、沙矢は、
「もう一人の男は?」
と、京一と似た様なことを浩幸に訊いた。
「居るよ」
と、浩幸は体を前に倒して、後部座席が見える様にする。
 沙矢は、中を覗きこんで、
「格好いいじゃん」
と、京一を見て言った。
「サンキュ」
と、京一は微笑みかけた。─―営業スマイル。「そっちは? 一人?」
「ちゃんともう一人居るよ」
と、沙矢が窓から離れると、クリーム色の髪の女が立っていた。─―原田恵だ。
 何で恵がここに?
 京一は考えた。
 浩幸は知り合いの女と、その友達の女が一人来るって言ってた。このソバージュ女はどうも浩幸の知り合いらしい。で、その友達はどうも、恵っぽい。─―つまり、おれと恵は、今夜一緒に肝試しをしてあそぶのか?
「マジで?」
と、呟いて京一は苦笑いを浮べた。
 呟けるのはまだ良い方で、恵なんかは苦笑いを浮べるので精一杯だった。
 こうして、気まずい二人の気まずい夜遊びは始まった。
 しかし、何故か気まずそうなのは京一だけで、恵は落ち着いた感じがしていた。
 車が走り出すと、京一は、
「ところで、今日はどこへ行くんだよ」
と、浩幸に訊いた。
「魔女の館だよ。知らない?」
「知らねえな」
「他の二人は?」
と、浩幸は恵と沙矢に訊いた。
 二人は、口をそろえて、
「知らない」
 やたらとタイミングが良い。
「誰も知らないのか。二十年ほど前に心中があった家なんだ。─―集団自殺と言うべきかな」
「よくある話だね」
と、沙矢が言った。
 浩幸は笑みを浮べて、
「と、思うだろ?」
「何かあるの?」
「現場で話すよ。そっちの方が臨場感があるだろ?」
「そうだね」
と、沙矢は口元だけで小さな笑みを浮べた。

十五分ほど車を走らせて着いた所は、地元人の京一、恵、沙矢ですら知らない土地だった。
辺りに家はおろか、街灯すら建っていない。
あるのは、畑、田んぼ、森、林、そして、工事用のバリケードで入り口がふさがれている謎の敷地。
 敷地内には、向かって左に直方体の建物があり、正面は森。山状になっている様で、奥に行くに連れ、木が高くなっている。右はその山の一部の様だ。
 直方体の建物には入り口らしいものは見えず、ただ、三〇センチ角の小さな窓が、下から上までびっしりと無数に並んでいるだけだった。高さは二階建てほどで、幅が四、五メートル、奥行きは、十二、三メートルほどである。
 浩幸は慣れた手つきで、バリケードをどかすと、四人はそれぞれで持参したペンライトを片手に、浩幸、恵、沙矢、京一の順で、右にある山の一部の中へ入って行った。
 山の一部にはちゃんと階段が設けられている。結構急だ。
 京一は、後ろも前も気になってしかたがなかった。
 後ろには、居ないとわかっていても、何か居そうだし、前には、スカートから露出した、沙矢の白い太ももがあるのだ。男としては視線を注がないわけにはいかない。何せ本当に目の前にあるのだから……。
 京一は、ポケットのコンドームを確かめて、今夜はこの娘を食うに限る、と冷静に思った。冷静に……。
 階段の終わりに着くまでに、浩幸以外の三人は何度か足を滑らせて、こけそうになった。腐葉土が積もっていて、それが水分を含んでぬかるんでいたからだ。
 残念ながら京一は、期待していた沙矢のパンチラを見ることはできなかった。
 四人は階段の終わりで足を止めていた。
 三メートル幅ほどの谷をはさんで、古びた洋館がそびえている。谷には橋の代わりに、木の足場板がかけられている。本来の橋はもう無い。
 京一は前へ進み出て、谷を覗いた。
 館はずっと下まで続いている。正確には、左下に、だ。上を見るとやはり、今度は右上に上っている。つまり、この館は、山に沿った造りになっているのだ。
 京一の顔はいたって真剣だった。むしろ、強張っている様にも見える。
─―おれ、高い所恐いんだよね。
と、いうことだそうだ。
 引きつった笑みを浮べて、京一は後ろを振り返った。
 後ろの三人は謎の頷き。─―行け、ということか……(?)。
 ゆっくりと向き直り、深く息を吸う。
 恐る恐る右足を足場板に乗せて、
「南無阿弥陀仏!」
と、叫んで、目一杯前方へジャンプした。
 三メートルも飛べるはずもなく、中央をちょっと過ぎた辺りに左足から足場板に落ちる。
 木の足場板は大きくしなって沈んだ。
 京一にはそれが、一メートルにも、二メートルにも感じられたが、実際には五〇センチほど。
 はっきり言って、プロの鳶職以外の足場に慣れた職人でも、この状況は危ない。人間恐怖に身を引こうとして、大概後ろにはねっ返るからだ。
 しかし、京一は運良く前へ、
「アーメン!」
と、叫びながら飛んで、胸で着地した。宗派は何なのだろ。
 それを見ていた三人は、ニヤリ、と怪しげな笑みを浮べてから、普通に足場板を渡った。
 小さな玄関を抜けると、そこはダイニングキッチンだった。腰壁で区切られたリビングもある。
「いかにも出そうって感じだな」
と、京一はすでに落ち着いていた。
「この黒電話なんか、いい味出してるだろ」
と、浩幸は古ぼけたフローリングの床に置いてある、昔ながらの黒電話をつま先でこついた。「さて、円陣でも組んで怪談しようか」
四人は、おもむろに部屋の中央に集まり、腰を床に下ろす。
 ちゃっかり、沙矢との距離をつめた京一は、
「名前は?」
と、沙矢に訊いた。
「沙矢。そんで、そっちのが恵姉さん」
 京一は恵の方を向いた。互いに会釈。
 姉さん、と言っても実の姉でも、義理の姉でもない。ただ、沙矢より恵の方が年上、というだけのことである。
「あなたは?」
「酒井。下は京一」
「私のタイプかも」
と、沙矢は微笑み、京一は心内でガッツポーズを上げた。
「歳はいくつ?」
「今年で十六。沙矢ちゃんは?」
「十五の中三。この中では一番年下になるかな。恵姉さんも今年で十六だし、ヒロ君はもう二十歳。――おっさんだね」
と、沙矢は浩幸に笑いかけた。
 浩幸は目を据わらせて、
「どうでもいいけどさ」
 沙矢のスカートに目を落とす。「その座り方、パンツ丸見えなんだけど」 
「いいよ。別に。減るもんじゃないし、恥ずかしくもないし。でも、じろじろ見るのはやめてよね。気持ち悪いから。─―京一君もね」
 沙矢はドライだった。もしかして、さっきまでの笑みはぶりっこ?
「気になるから隠しなよ」
 浩幸の言葉は優しかったが、やはり沙矢と同じく、どこかあっさりしていた。
 何だか空気も乾いた気がする。
 沙矢は、しばらく浩幸を見ていたが、目をそらすと口を尖らせて、座り直した。
 空気が……乾いているのに重い。
「ヒロ君─―だっけ? その格好は仕事の帰りか何か?」
と、恵が空気をにごすかの様に言った。
「そうだよ。ほこりっぽい?」
「モデルみたいな馬鹿より千の万倍いい」
 むろん、浩幸は恵と京一が付き合っていたことを聞かされてないわけで、苦笑いを浮べた。
─―そのモデルがおれの前に居るんだよ!
「怪談始めろよ、そろそろ」
と、京一が言った。
 どうも、空気は軽くならない。
「怒るなよ」
と、浩幸は京一に微笑みかける。
「怒っちゃいない」
 明らかに、ふてくされた声。「ここであった集団自殺は、どんな自殺だったんだよ」
 浩幸は一息吐いて、「首吊りだよ」
「普通じゃん」
と、沙矢が反応した。
「そう。死に方はな」
 浩幸は、含み笑いをして、「おかしいのは死体の方だよ」
 恵も微笑んで、
「全員モデルだったとか」
 京一は恵を睨む。
 恵はそっぽを向く。
 沙矢はそれを見て不思議そうな顔をし、
 浩幸は首を振って、
「死んだ奴が死んでたんだ」
と、言った。
京一は向き直り、
「どういう意味だよ」
「そのままの意味さ。前に一度死んだはずの人間が死んでたんだよ」
少し間があった。
「詳しく話せよ」
と、京一が言った。
 浩幸は、そう来なくては、と言わんばかりの笑みを浮べて、
「死んでた奴は、全部で四人。猫並重、田中芳子、井上明里、多田修。猫並重は二十歳過ぎ、他の三人は皆十代後半だ。多田修以外の三人は、ここで死んでいた」
と、浩幸は床を指さした。全員に少し緊張が走る。
「多田修は違ったの?」
「そう。違ったんだ。何故か多田だけは、一階で首を吊っていた」
 恵は眉をひそめて、
「それって……おかしくない?」
「だろ? どうして、一人だけ違う場所で死んだのかわからない」
「別々に死んだからじゃねえの? 先に多田修が一人でここへ来て、一階で首を吊った。その次に残りの三人が来て、首を吊った。きっとそうだ」
と、京一が言った。
「残念」
と、浩幸は首を振った。「四人は顔見知りで、その日一緒にここへ来たのを確認されている」
 京一は少し考えて、
「それならおかしいな」
「そうだろう?」
 浩幸は微笑んで、「でも、もっとおかしいのは、多田修以外の三人の死体なんだ。三人共、当時から数えて二十年ほど前に、一度死亡が確認されている。もちろん、二十年前と当時の名前は違う。けど、体は全く同じだったんだ」
「どうして、そんなことわかったの?」
と、沙矢が訊いた。
 浩幸は肩をすくめて、
「詳しくはわからないよ。色々と鑑定したんだろ」
「それはちょっとおかしいな」
と、言ったのは京一だった。「二十年も前に死んだ奴と、照し合わせること自体が不自然だ。─―ぼけつをほったな。浩幸。嘘はもっと上手くつかなきゃね」
 浩幸は黙ってポケットの中に手を突っ込んで、引き出した。手には紙─―いや、新聞の切抜きが握られている。
 京一はそれを手に取った。
「二十年前。その当時の新聞の切り抜きだよ」
蘇る死体三体>と、いう見出しだ。
「ここは公認の幽霊屋敷なんだ」
と、言って浩幸は立ち上がった。「さぁ。肝試しを始めよう」
 京一が青くなったのは、言うまでもない。


     2、消えた二人

 男が二人、女が二人。言うまでもなく、男女一人ずつのペアになって、上の階と下の階を別れて探検することになった。
 一人ずつローソクを持って……なんていう真剣な肝試しをするのは、子供の内かよっぽどのもの好きだけ。
 彼等にとって、肝試しとはただの名目に過ぎない。セックスができれば、海水浴でも、花火でも、何だっていいのだ。
 付け加えて言えば、場所も選ばない。ホテルにこしたことはないが、人気が無ければ全てよし。車内でも、こんな空家でも、どこだっていいのだ。
 二、三断っておくが、セックスは、必ずしもできるわけではないし、こんないい加減な遊びをするのは、限られた一部の男女だけである。
 こういう遊びを、女ネタ、女ネタ、と呼ぶ京一は、絶対に今夜、沙矢は食える、と妙な自信を持っていた。
 だから、
「お前は恵ちゃんとペアな」
と、浩幸に言われた時は、唖然としてしまった。
 そんなことを気にしない浩幸と沙矢は、
「頑張りなよ。京一」
「恵姉さん、あんまり声出しちゃ駄目よ」
と、言って、さっさと上の階へ上がって行ってしまう。
 あとでやらしてくれるかな? なんて考えながら京一は、
「おれ達も降りるか」
と、恵に言った。
「どうして、あんたなんかと仲良く肝試ししなきゃいけないのよ」
 それは、おれも言いたい、と京一は思った。
「別に仲良くする必要はない。行くぞ。」
と、面倒臭そうに言って、階段へ出て上を照らした。
 もう、あの二人は居なくなってる。
 階段はいたって狭く、人が一人通れるぐらいの幅しか無い。上にも下にも、まっすぐ同じぐらいの長さで延びている。
 京一は恵のほうを向いて、
「お前、前歩け」
「どうしてよ?」
「後ろ、すげえ怖いぞ。─―お前、苦手だったろ」
恵は左の頬だけで笑みを作って、
「あらあら、気を遣って下さるの」
と、皮肉めかして言った。
「別に」
 京一は肩をすくめて、「行かないのなら、おれが行くからいいよ」
と、階段を降り始めた。
 しかし、三段と降りない所で、後について来ていた恵が、
「やっぱ、替わって」
と、京一のTシャツをつまんで引っぱった。
 京一は、肩で息をついてから背中を壁に押し当てた。横向けになれば、入れ替われそうだ。
 恵も、反対側の壁に背中を押し当て、背中を壁で擦りながら前へ進む。
 一瞬、二人の胸が密接した。
「Aカップでも、胸に当たると大きく感じるな」
と、京一が言った。
「`Aよ」
と、恵はそれとなく呟いたのだった……。
 そのまま下へ降りた恵は、扉が取られて無くなっている洋室の前で立ち止った。
 ライトで中を照らす。
 京一は階段を一段登った所から、扉のサッシに手を突いて、恵の頭の上から一緒になって中を覗いた。
 何も無い。ただ三〇センチ角ほどの小さな窓が、入り口の対の壁一面に、びっしりと並んでいるだけだった。
 ここは来るときに見た、あの入り口の無い直方体の建物の二階だ、と京一は直感した。
「入れよ」
 京一は、恵の背中を指でこつく。
 恵は京一を見て、「何で」
「探検しに来たんだろ」
 恵は向き直って、
「おどかさないでよ。おどかしたりしたら、承知しないからね」
と、前へ歩み出した。
 京一もそれに続く。
「狭いな」
と、京一が言った。
「十分広いわよ。十畳ぐらいあるんじゃない?」
「どう見たって六畳だよ」
 恵は口を尖らして、
「私の部屋もっと狭いもん」
と、すねる。
 そんなことを気にせず京一は、入って右手の壁をライトで照らして、
「絶対におかしいぞ。この部屋」
 恵は少しおびえた声で、
「怖いこと言わないでよ」
と、言って京一に近付いた。
「思ったことを言っただけじゃねえかよ。─―どう考えても狭いだろ。この部屋」
「どこが」
 京一は窓に寄って外を見た。むろん、ガラスははまっていない。
「あそこにバリケードが見えるだろ」
 恵も外を見る。「おれ達が入って来た所だよ」
「それで?」
「ここからバリケードが見えるってことは、向こうからもここが見えるってことだ」
「それで?」
 京一は恵を見て、
「お前なぁ……。それで、それでって─―来る時に見なかったのかよ? この建物」
「見てない」
 恵は、きっぱりと否定した。
 京一はため息をついて、
「この建物は、おれの見る限り十二、三メートルはあった。けど、この部屋の長さは、四、五メートルほどだ。形は直方体で─―わかるか?」
 恵は腰に手をかけて、
「これでも原付の免許持ってんのよ」
 何がどう関係して、原付の免許が出てくるんだよ? と、京一は思ったが、
「あんなもん誰だって取れるよ」
と、言った。
 恵は京一の発言は無かったかの様に、
「本当ならこの部屋は、この倍の大きさはあるってことでしょ?」
「そう。この建物は、あくまで直方体をしていたんだ。これがもし、階段状にできてるならこの広さでも、おかしくないんだけどな」
 恵は、美人教師よろしく、左手で右ひじをかかえ、右こぶしをあごに当て、
「例外があるわ」
と、京一を見た。
「どんな」
「下の階が吹き抜きになってたらどう? こんな洋館だったら大きなシャンデリアが吊るしてあるかもよ」
 その可能性は高いな、と京一は思った。
 下の階の天井をぶち抜いて、二階の部屋が狭くなるのを承知で吹き抜きを造ったのかもしれない。
 京一が少し考えてから、
「おれは隠し部屋だと思うんだけどな」
と、言った。その時、二人は同時に苦笑いを浮べた。
 隠し部屋があって、その中に白骨化した人間の死体が─―なんて変な想像をふくらましたからではなく、上の方から沙矢の喘ぐ声が大音量で響いてきたからだ。
 嫌な苦しみで喘いでいる声では、むろん、ない。
 聞いてるこっちが恥ずかしくなるわ。まったく。─―人にはあまり声出すなとか言ってたくせに。もし、京一とそうなるなら私も─―まで、恵は頭の中に言葉を走らせて、─―何考えているのよ! 私は! と、自分に喝を入れた。
 京一は、ゆるんだり、しまったりする恵の顔を見て、何なんだこいつは、と思い首をかしげているのであった……。
 ふと、目の合った二人は、
「何やってんの」
と、口をそろえて言った。
「おれは、お前の顔を見てた」
と、京一は言う。
 続いて恵は、
「私は─―」
 言葉をつまらせて、「私はその─―ちょっとね」
と、微笑んで─―いや、笑いかけて見せた。
 京一にとってその笑みは、不思議な笑み、と言うより、むしろ、不気味な笑み、に近かった。
 苦笑いを浮べて、
「下へ降りるぞ」
と、京一は階段へ向いた。
「先、歩かないでよ」
と、恵は足早に京一を追い越して、先に階段へ出た。
 階段はやはり、部屋の中よりもよく聞こえる。
 二人は真顔で下に降りた。
─―真顔になっている分だけ、沙矢の声が気になっているということだ。
 一番下の階─―つまり、一階は、人が二人三人入るのがやっとの広さだった。
 いや、部屋の広さは、十何畳あろうかというぐらい広いのだが、家具がでたらめに押し込まれて、山積みされているので、狭いのだ。
 京一は天井を照らした。
 吹き抜きなど、無い。普通の天井になっている。
 適当な家具に腰を降ろして、
「お前の言う例外は外れだな」
と、京一は言った。
「その様ね」
「隠し部屋に決まりだ」
 京一は妙に嬉しそうだ。
「何よ? その笑みは」
と、恵は眉を寄せた。
 少し間を置いて、
「探しに行こう」
と、京一は満面の笑みを浮べた。
「嫌よそんなの─―」
と、恵が顔をしかめた時だった。
 沙矢の声はピタリと止み、それとほぼ同時に、二人の真上の天井で、濡れた重みのある鈍い音がした。
 二人は硬直している。
「何……? 今の音」
と、恵が囁いた。
 京一はさきほどの笑みを引きつらせ、
「真上だったな」
「だからさぁ……何? 何の─―」
 恵は言葉を切った。
 続いてサイレンのような悲鳴を上げて、京一に抱き付く。
「何だ! 今の悲鳴は!」
と、京一が言ったのは、恵が悲鳴を上げたからではなく、沙矢の絶叫にも聞こえる悲鳴が、館中に響いたからだ。
 ただごとじゃないぞ!
 京一は恵の腕をつかみ、階段を駆け登り始めた。
 恵は、引きずられまい、と必死に京一の足にあわせて付いて行く。
─―あの声は普通じゃなかった。浩幸に無理を強要されたのか?
 あの喘ぎ声のあとでは、どうしても、考えが片寄ってしまう。
 階段の突き当りまで登った京一は、折り返しになっている三メートルほどのろうかも突き当たり、左手にある部屋の入り口から中へ飛んで入った。
「落ち着け、浩幸!」
と、叫んで、「南無三!」
と、目を丸くした。
浩幸も沙矢も居ない。
─―どういうこった?
 京一は、ハッとして後ろを振り返った。恵も居ない。
「恵、お前もか!」
と、シーザーと似た様なことを言って、あわててろうかへ出た。「ひっ!」
と、短く叫ぶ。
「何座ってんだよ! そんな所で。ビビるじゃねえかよ!」
と、入り口の手前で座り込んでいた恵に怒鳴った。
 恵は今にも泣き出してしまいそうだ。
「どうした」
と、京一は眉をひそめて訊いた。
「腰、抜けた」
 声はすでに泣いている。
「腰? 立てないのか?」
「うん」
 恵は小さく頷いて、「あの二人は?」
と、訊いた。
「居ないんだ」
「居ない?」
「そう。居ない」
「どうして?」
「どうしても」
沈黙した。
「本当に居ないんだ。嘘じゃない。─―でも、よく探してないから、まだわからない。もう一度、見て来るからここで待ってろ。いいな?」
と、京一は言った。
 恵は、目を擦りながら頷いて、
「わかった」
「よし。─―もし、何かあったら叫べ。手遅れでない限り助けてやる」
 手遅れで助からないのは、当たり前である。
 京一は、回れ右をして部屋へ戻って行った。
 この部屋は、この館唯一の和室で、広さは八畳プラス床の間と押し入れ。他に出窓もあった。
 和室というせいか、他の部屋とは違った感じがする。
 京一は、恐る恐る押入れを開けた。
 何も無い。
 首を引っ込めようとした時、一枚の古びた写真が目に入った。
 手に取って眺める。
 目のきつい女が一人、目の大きい女が一人、ニキビ面の男が一人、計三人写っていた。
 何だこれ。─―どっかで見たことのある様な奴等だな。
 京一は、写真を床に戻し、首を引っ込めた。さて、二人はどこへ行ったんだ? まさか、窓から落ちたんじゃないだろうな。
 窓へ歩み、外を覗く。
 ライトで下を照らしたが何も見えない。
─―何も?
 そんなはずはない。渡って来た足場板が、見えるはずなのだ。
 身を乗り出して下を照らす。
 やっぱり無い。
 浩幸達と一緒に落ちたのか……。
 京一の浩幸、沙矢ペア墜落説の確信は、高まっていった。
 とりあえず、下へ降りて確かめよう、と京一は思い、回れ右をして、
「ぎゃっ!」
と、悲鳴を上げて尻もちをついた。「居るなら言えよ! ビビるじゃねえか!」
「そんなにおどろかなくてもいいじゃない」
と、京一を見下ろす恵は言った。
 京一は立ち上がって、
「腰を抜かしてたくせに、えらく平然としてるな」
と、皮肉を込めて言ったつもりだが、恵は、
「そんなことないよ。─―本当に居ないみたいね。あの二人。どこ行っちゃったんだろう?」
と、京一の皮肉には応えなかった。
「さぁな。─―それより、外見てみろ」
と、京一は窓を指さした。
 恵は窓の外を覗く。
 京一も隣に並んで、
「渡って来た足場板が無くなってるんだ」
と、下を照らした。
「本当ね」
 恵の顔を見て、
「おどろかないのか?」
と、京一は不思議そうに訊いた。
「まだ、本当に無いかどうかは、わからないじゃない」
と、言って恵は窓から離れる。「さ、下に降りてちゃんと確かめましょ」
と、入り口に向かって歩き出した。
 その背中を眺めていた京一は、おれなら無くなってると聞かされた時点で、そうとうおどろくけどな。と、思った。─―変な奴。


3、二つめの死体

入り口のある階─―つまり、三階まで階段を下りた所で、京一は階段を振り返り、ライトで照らして、
「この階段、何か長くねえ?」
「もう、気味悪いこと言わないでよ」
「だって……」
 京一は下を照らして、「上には一部屋しかねえのに、二部屋ある下の階と、同じくらいの長さがある」
「そんなことは気にしないの─―さぁ、入り口を見に行きましょ」
 恵は京一の手首をつかんで、半ば強引に入り口へ引っぱって行った。
 京一は未練がましく首だけを、階段の方へ向けていた。
 入り口へ出ると、恵は、
「本当に無いわね……」
と、考える美人教師のポーズをとった。
「どうするよ。帰れねえぞ」
と、京一は不安そうな声で言う。
「何馬鹿なこと言ってんのよ」
 恵は携帯電話をポケットから取り出して、「これがあるじゃない。─―これで助けを呼べば……」
と、二つ折りの携帯を開けて言った。「あれ? 電源切れてる……」
と、はにかんで見せる。
 京一も自分の携帯電話を取り出し、開けた。
白い光が京一の顔を照らす。─―表情は不安気なまま、ゆるまなかった。
「よかった。京一のは生きてるみたいね」
 京一は首を振って、
「圏外だ」
と、ため息を吐いた。「使えない」
「嘘?」
 恵は京一の携帯電話を手に取って、ディスプレイを覗き見た。
─―一時四十六分。圏外。
「圏外だろ」
「うん」
 恵は京一に携帯電話を返して、「どうしよう……。私達、閉じ込められちゃったよ! ─―どうしよう!」
と、うろたえ始めた。
こいつ、携帯が使えると思ってたから、あんなに平然だったのか? と、京一は心内で呟き、目を据わらせて恵を見た。
 こんな所、圏外に決まってるのに。
「とりあえず中に入ろう。それから、どうするかを考えるんだ」
と、京一は恵の手を引いて中に入った。
 まさか、とは思ったが、念のため床に置いてある黒電話をチェックする。
 つながらない。
 よく見れば、電話線自体が付いていない。これでつながってもらっても、少し困る。
 京一は、表向きの壁にある窓の下に、ゆっくりと腰を下ろした。
 恵も隣に京一と同じく、あぐらをかいて座る。
「さて、どうしようか? ─―というより、どう思う?」
と、京一が訊いた。
「何が?」
「色々さ」
 京一は深く壁にもたれて、「どうして足場板が無くなっているのか、浩幸達はどこへ消えたのか、おれ達はこの先どうなるのか……」
 表情はいたって真剣だった。
「何もわからないわ」
「おれもさ」
と、京一は言った。「わかってるのは、自力ではどうしてもここから出られないってことだ。─―一階に物が無けりゃ、あの細い窓サッシを壊してでも、外に出られるんだけどな」
「一番下の階段の突き当たりの壁を壊したら?」
 京一は首を振って、
「壁を壊すのは無理だ。─―でかいハンマーか何かあれば別だけど」
「そう」
と、恵は顔を伏せた。「一階の家具を橋にできないかしら?」
 京一は少し考えて、
「おれとお前の二人じゃ無理だろうな。─―それに、橋を作る道具も無い」
「作らなくても、大きなタンスか何かをそのまま架ければいいじゃない」
「三メートルもある家具なんて、めったに無いぞ。あったとしても、そんなごついもんおれ達二人じゃ運べない」 
 二人を沈黙がつつんだ。
 本当におれ達は、これからどうなるんだろう? このフローリングみたいに、朽ちていくのだろうか。
 京一らしくもない。気持ちの黄昏だった。
 ふと、京一は隣に目をやった。
 恵が俯いて、座っている。
 よく見ると、恵のタンクットプは、男物じゃないか。わき下が開いていて、少し、─―本当に少しだけ、横乳が見えている。
 もっと、女の子らしい格好すればいいのに。─―ま、おれは、こんな感じのちょっとボーイッシュな、女が好きなんだけどな。
 恵は京一が自分を見ているのに気づいて、
「何?」
と、京一を見た。
「いい女だな、と思って」
 恵は鼻で息を切って、
「今さら、何よ」
と、前に向き直った。「浮気してたくせに、よくそんなことが言えるわね」
 別に恵は怒ってもいない様だ。
「それは、お前が勝手に言ってるだけだろ」
と、京一は言った。「おれは浮気なんかしてやしない。─―お前の勘違いだ」
「たとえ、そうだとしても、他の女といちゃついてたことに変わりないわ」
「手をつないでただけだろ」
 恵は京一を睨みつけて、
「私が同じことしたら怒るくせに!」
と、怒鳴った。
 それから、少し間を空けて、
「ごめん」
と、恵は頭をたれた。
「別に謝ることじゃねえよ。お前の言う通りかもしれないんだし」
と、言って、「おれ、お前好きだよ」
と、京一は呟いた。
 しばしの間があった。
「私もよ」
「でも─―」
 京一は恵の方を向いて、「エッチは好きじゃない」
と、微笑みかけた。
「え?」
と、恵は少し目を開いた。
京一は、にこやかに笑って、
「冗談だよ」
と、前に向き直る。「気にすんな」
 しかし、恵は、
「したいの?」
と、声を低くして、訊いた。
「そんなんじゃねえよ」
「じゃあ、何?」
「だから気にすんなって」
「急に、エッチは好きじゃない、とか訊かれたら、誰だって気になるわよ。それに─―」
 恵は一度俯き、再び顔を少しだけ上げて、「沙矢の喘ぎ声聞いたから、したくなったとか……」
と、上目遣いで言った。
「そりゃ、まぁ、ちょっとはな」
と、京一はのどで笑い、「お前はどうなんだよ」
と、冷やかす様に言った。
「そりゃ、まぁ、ちょっとはね」
と、恵は悪戯っぽく、犬歯を覗かして微笑んだ。
 京一は恵側の手を恵の首筋にかけ、「本当に、ちょっとだけか?」
と、恵の耳元で囁いた。
「ナイショ」
と、恵は京一の内ももに手を添えて、「沙矢が悲鳴を上げるまで、あの二人がしてたことを私としてみる?」
と、言って、恵が京一のズボンのジップに指をかけた時、
京一は、
「畜生、忘れてた!」
と、跳ねる様に立ち上がった。
「もう! 急に何よ」
 恵は怒った様に、「コンドームなんて、今さらいらないわよ」
「馬鹿言え」
と、言う京一の言葉に恵は、
─―もしかして、私の体のことを考えて? できた時堕ろすと体に良くないし……。と、心の琴線に触れたが、
 次の、
「悲鳴が聞こえる前に、上で音がしたんだ。─―下に降りよう。隠し部屋を見つけるんだ」
と、言う言葉にすっかり気を悪くしてしまった。
 やっぱあんたなんか、死ね─―。ま、いずれそうなるか、と思い恵みは微笑を浮べた。
 そんなことを一向に気にしない京一は、さっさと階段を降りて行ってしまう。
 いくら立腹してるから、といっても一人で残されるのは嫌だ、と恵はあわててあとを追ったが、追いついた時には、もう京一は壁をライトで照らして、隠し部屋につながる、隠し扉を探していた。
 そして、一分とたたない内に、怪しげな小さい穴を見つけてしまったのである。
 さすがの恵みも、京一が穴に指を突っ込んで、
「何かある」
と、言った時から興味津々といった様子で、京一を見守っていた。
 穴の中で、何か指に引っかかるらしく、京一はそれに一所懸命指を引っかけて、引っぱっていた。
ガチャリ
とは音が立ったが、扉らしきものが開く気配は無い。
 もう、かれこれ三分も引っぱり続けている。
 その様子をじれったそうに見ていた恵は、
「引いて駄目なら、押せ」
と、呟いた。
 京一は言われた通り、穴の中にある、それを引っぱったまま、壁を押した。
 すると、壁はあっけなく、何の音も立てずに、奥へと吸い込まれて行く。
 京一は、中を照らした。
 三〇センチ角の窓が並ぶだけ─―ではない!
「浩幸!」
と、叫んで京一は中へ入って行った。「大丈夫か、おい!」
と、床にうつ伏せになって、倒れていた浩幸を揺さぶるが、返事はない。
 そして、京一の後ろに立っていた恵は、
「私、知らないわよ……私─―」
と、何かにおびえた声で呟いた。
 京一は振り向いて、
「どうした?」
 恵は首を左右にゆくりと振りながら、後ずさりする。
 様子がおかしい、と京一が立ち上がった瞬間、恵は扉を力まかせに引っぱった。
 扉は、ばたんと音を立てて閉る。
「なんだよ! おい!」
と、京一は叫んだが、扉の向こうからは、返事の代わりに階段を駆け上がる音だけが返って来た。
 京一は、ドアノブ─―内側は普通の扉と一緒の造りになっている─―をひねって、外へ出た。
 すでに恵の足音は消えて、辺りは静まりかえっていた。─―いや、虫のさえずりは、やかましいほど聞こえている。
「何だってんだよ」
と、呟いた。
 階段に出て、何度か恵の名前を叫んだが、何の返事も返って来なかった。
 恵を探したい気持ちは山々だったが、今は倒れている浩幸が優先だ。
 京一は隠し部屋へ戻った。
 あいかわらず、浩幸は倒れたまま動かない。
 浩幸の周りには、今晩出会った時に京一が渡したピルケースと、ペンライトが無造作に転がっていた。
 浩幸の背中に耳を押し当てる。
 何も聞こえない。
「嘘だろ」
 あわてて、鼻にも耳を近づけた。
 息を止めてるのだろうか─―。呼吸している気配はなかった。
 京一としては、そうであってほしかった。
 しかし、何分耳を近づけていても、鼻から空気が出入りする気配はない……。その代わり─―何だろう? 嫌に甘ったるい匂いがした。
 京一は、自分の足が震えているのに気付いた。
「死んでる……」
─―一階で聞いたあの鈍い音は、浩幸が倒れる音だったのか!
 次に京一は、全身の力が抜けるのを感じた。
 浩幸が、どうして?
─―どうして!
 京一は立ち上がった。
 恵は何かを知ってるのかもしれない!
 その瞬間、
「おーい」
 女の声が館に響き渡った。
 聞いたことがある。─―でも恵ではない。誰だ?
 京一はしばらく考えていた。
「みんな帰っちゃったのー?」
 その間にも女の声は休むことなく響いていた。
 だんだん近付いている。
「ヒロくーん。恵姉さーん。京一くーん。─―どこよ」
 京一はハッとした。
 沙矢だ!
 急いで外へ出た。
手には浩幸の傍に転がっていたピルケースが握られている。そっとポケットにしまう。
─―麻薬を持ったまま死なせはしない!
「沙矢ちゃん!」
 京一は階段へ出ると叫んだ。
 ほんの十段ほど上に沙矢は立っている。
「京一君!」
と、叫んで、沙矢は怒涛の勢いで階段を駆け降りてくる。
「待て、待て、止まれ! おい」
 これで、止まれば警察も苦労しない。
 数秒後、京一は全身全霊をこめて、沙矢を受け止めていた。
 前のめりになって、腹に抱き付き、顔を胸にうずめて、沙矢はその頭を抱きしめて……。
まったく羨ましい限りである。
「みんな、帰ったのかと思った」
と、沙矢は泣き声で言った。「何してたのさ」
京一は沙矢から頭を離して、
「そっちこそどこに居たんだ? ─―とにかく三階へ行こう。色々話さなきゃいけないし、色々訊きたいこともある」
「うん」
と、沙矢は小さく頷いて、回れ右をした。
 この子のおかげで、少しは謎が解けるだろう。
 浩幸と沙矢の行方の謎。
無くなった足場板の謎。
そして、浩幸の死についても……。
 三階へ上がると、京一はまず沙矢を入り口へ連れて行って、足場板が無くなっているのを見せた。
 すると、沙矢は、
「多分、ヒロ君の仕業だよ」
と、言った。
「浩幸が? どうして」
「さぁ……」
 沙矢は首を少しかしげて、「京一君達をおどろかすって言ってたから」
「そうか─―でも、足場板を無くしたんじゃ、おどろくのは当たり前で、ここから出られなくなっちまうじゃねえか」
「きっと、他に出る方法があったんだよ」
 そうなのだろうか?
「ところで、あんたはどこに居たんだ?」
「四階」
「四階?」
「そう」
「この上の階のことか?」
「そうだよ」
「嘘吐け。おれはあんたの悲鳴を聞いてすぐ上に上がったんだ。─―上には、猫の子一匹居なかったぞ」
 沙矢は首をかしげて、
「それ、五階じゃない?」
「五階? いや、四階だよ」
「多分、五階だよ」
と、沙矢は部屋へ入り、振り向いて、「ついて来て。口で説明するより、見た方が早いから」
 百聞は一見にしかず─―か。
 京一にしては、ごくごく珍しい言葉だった。
 沙矢は階段へ向かって歩き出した。
 ま、ついて行く価値はある。─―でも、どう見たって四階建てなのにな。
 京一は沙矢のあとをついて行った。
 沙矢は、階段をゆっくりと登りながら話す。
「この建物はね、一見した感じ、四階建てに見えるけど、実は五階建てなの。─―こんな、えらそうなこと言ってるけど、私もヒロ君に聞かされて、びっくりしてたんだ」
「どういうことだよ」
 沙矢は立ち止まって、
「こういうこと」  
と、壁に開いた小さな穴に指を入れた。
「隠し部屋か」
「そう」
 沙矢は扉を押す。
 階段一段分─―と、言っても、並よりは大きい─―の幅しかない扉だった。
 横向けになって、沙矢は入って行く。
 京一もそれに続いた。
 二人が完全に中へ入ると、扉は自然に閉った。
 中を照らし渡す。
 窓無し。クローゼット無し。ただ、ベットのマットレスだけが。部屋の中央に置いてあった。
 広さは、おそらく十何畳─―いや、二十何畳。とにかく、他と比べて広い。
 マットレスは、どうやって入れたんだろう。
 京一は少しのん気なことを考えていた。
 いつの間にか、沙矢はマットレスに腰かけていて、
「おいでよ」
と、京一に手招きをした。
 浩幸が死んでなきゃ今からこの子と─―。
 京一は首を振って、マットレスに歩んだ。─―こんな考えはよそう。
 沙矢の隣に腰を下ろした。
「私はずっとここに居たの」
「一人でか?」
 沙矢は少し考えて、
「最初はヒロ君と二人。途中から私一人」
「最初っていつのことだ? 三階で二組に別れてからすぐか?」
 沙矢は頷いて、
「そう。まっすぐ、ここに来たの」
「それからどうした?」
「京一君ならどうする?」
と、沙矢は逆に訊き返した。
「わからん」
と、京一は即答。「何か変なこと─―いや、何か変わったことしてたか?」
「どうして、そんなこと訊くの? 言わなくてもわかるでしょ?」
 京一は黙った。
「浩幸にさせたんだから、おれにもさせろ、とか嫌だよ……私」
と、沙矢が言った。「だって、私、ヒロ君の彼女なんだから」
 初耳だ。と、京一は思った。
「そんなつもりはねえよ」
「じゃあ、どうして、そんなこと訊くの?」
 やはり、言いにくい。浩幸が死んだ、なんて。
 でも、言わないと……。
 京一は重い口をゆっくりと開けた。
「死んだんだ」
「死んだ? ─―何が」
 京一は、つばを飲んで、
「あんたのボーイフレンドだよ」
 一時の間があった。
「何言ってるの、京一君。それでおどかしてるつもり?」
と、沙矢は馬鹿にする様に言った。
「おどかすつもりなら、まだいいよ」
と、京一は腰を浮かした。「見に行こうか。二階の隠し部屋だ」
 沙矢は鼻で笑って、
「みんなして、私をおどかすつもりなんでしょ」
と、悪戯っぽい笑みを浮べた。「そんなことしたって私は─―」
 京一は急に振り返り、沙矢の言葉を遮った。
「ここでちょっと待っててくれ。すぐに戻ってくる」
と、沙矢の肩を強く握ったかと思うと、扉へ向かって駆けて行く。
「ちょっと、何よ!」
と、言う沙矢の声は耳に入れず、部屋を飛び出した。
五階へ向けて、階段を駆け上がる。
 みんな─―! そこには恵も含まれる。沙矢が出て来て忘れてた。あいつは何か知ってるんだ!
 後ろからは、
「ねぇ、ちょっと!」
と、沙矢が追って来ていた。
 折り返しのろうかを曲り、和室へ飛び込む。
「恵!」
と、京一は叫んだ。
 二、三歩遅れて来た沙矢は絶句する。
 窓のサッシ。
 たれ下がったベルト。
 恵の頭。
 そして体。
ベルトが抜け、ズボンが脱げ落ちた、中腰の下半身。
セックスをしたあとの様な、異様な臭い。
死んでいるのは間違いなかった。
─―恵が首を吊って!
沙矢がそう理解した時には、すでに京一が畳に恵を下ろし、寝かせているところだった。
京一にだって死んでいるのは、一目してわかった。
人間を絞殺すると、こうなる。
体中の穴という穴から水分が出て、脱糞をする。
その名の通り、絞り殺しなのだ。
沙矢は、京一の隣まで歩いて、その場にへたる様に座り込んだ。
京一はそんなことは気にしない。
─―役に立ってくれるだろうか。もう一度恵は……。
 普通二輪の教習所で教わった、応急救護処置を試みた。
 決して大げさなものではない。人工呼吸と心臓マッサージをくり返すだけだ。
 鼻をつまんで、あごを持ち上げる。
 これで気道を─―なかなか上手くいかない。
 畜生! 人形では簡単だったのに。
 京一が少し力を入れて、あごを持ち上げた時だった。
 恵の首は、ぐきり、と音を立てて折れてしまった。絶望。
 唇をそっと恵の唇に当てた。
 息は送らなかった。
 薄い塩味がした。
 涙があふれ出した。
 
また、人が死んだ。


4、沙矢の話

「これから、どうする?」
と、京一が言った。
沙矢は俯いたまま黙っている。
─―ここは、二階の隠し部屋。浩幸の死体が転がっている部屋に、二人は降りて来ていた。
 沙矢は浩幸の傍に座り、京一はその後ろに立っている。
 京一は、沙矢の肩を抱く様にして、沙矢の隣にしゃがみ、
「辛いのは、おれだって同じなんだ。いつまでも、ここでじっとしてるわけにはいかない。─―わかるだろ?」
「京一君と私じゃ、全然違うよ……」
「何も違わない。おれだって辛いし悲しい」
 沙矢は、首を振って、
「違う。京一君は恵姉さんをあまり知らないじゃない。─―私は二人共よく知ってるし、仲も良かった。全然違うよ」
 京一は鼻で笑って、
「おれだってそうさ」
「どういう意味?」
と、沙矢は京一を見た。
「そういう意味さ」
 京一も、その場に尻をついて、「昨日まで、おれと恵は彼氏彼女だった」
「もっと、まともな嘘つきなよ」
と、沙矢は目を伏せた。少し間を置いて、「私も死ぬわ」
と、話を変える様に言った。
「馬鹿なこと言うな」
 京一は立ち上がって、「ほら、これ見ろ」
と、ポケットから札入れを取り出して言った。
 色あせたプリクラが一枚貼ってある。
 学生服を着たカップルが一組。─―一人は京一だとすぐにわかった。
 もう一人は─―。
 どこかで、見たことがあるけど、思い出せない。身近な誰かだった気がする……。誰だろう?
 切れのある、少しきつい目をしていて、髪はストレートの黒髪。犬歯を悪戯っぽく覗かせている。─―中でも、、漆黒の瞳は目を引いた。
「誰? この女の子」
と、沙矢が訊いた。
「わからないか? 恵だよ」
 そういえば、似ている。
「本当に?」
「あぁ。中一の頃のプリクラだ」
と、京一は言った。「あんた、まだ恵と知り合ってなかったのか?」
 沙矢は頷いて、
「私が恵姉さんと知り合ったのは、去年の今頃だもん」
「そうか」
 京一は腰を下ろして、「恵とはどこで会ったんだ?」
「チームの集まり」
 何のチーム?
 京一は目を伏せた。そんなこと今さら訊いてどうするんだ。
 チーム――。暴走族、ギャング、走り屋、VIP。――ダンスやスポーツのチームだろうか? それとも音楽関係……。
 何のチームか訊きたかったが、京一は訊かなかった。
 だって、もし如何わしいチームだったら、自分が一人で惨めになるだけじゃないか……。そんな所に恵が出入りしてるなんて、今まで全く知らなかったんだから。
「どうかした?」
と、沙矢は京一の顔を覗き込んだ。
 京一は首を振って、
「何でもない」
と、息をついた。「浩幸とはどこで会ったんだ?」
「中一の頃かな……。ナンパされたの」
「ナンパか。浩幸らしいな」
と、京一は苦笑いを浮べた。
「京一君は? ヒロ君とどこで?」
「さぁな。いつからか一緒に遊ぶようになってた」
「そっか……。何かいいね、そういうのって。男って感じがする」
「ただ、馬鹿なだけさ。いつ頃かも思い出せねえ」
 少し間が空いた。
「恵姉さんとは?」
と、沙矢が訊いた。
「小学校からの同窓だよ」
「そのプリクラの頃――中一の頃に付き合い始めたの?」
「まぁな」
と、京一は思い腰を上げる様に、立ち上がった。「今日、一緒になったのは、さすがにびっくりしたよ。――と、言うかショックだったかな」
「男目当ての遊びだから?」
「ああ」
「それって、お互い様じゃない?」
「そうだな」
「でも――」
 沙矢は、遠くを見る様に、「最後まで一緒に居れて、良かったね」
と、京一に微笑みかけた。
「どうだろうな」
と、京一は曖昧に答えた。
「ところでさ」
 沙矢は立ち上がって、「京一君が、恵姉さんを殺したんじゃない? 自殺に見せかけてさ」
と、含み笑いをして、京一を見た。
「どうして、おれが」
「今日、ここに来たことに腹を立てた、とか。――もし、恵姉さんが、京一君を振ったんだったら、それも頭に来た、とか」
「残念だな」
と、京一は笑った。「あいつが男目当てでここへ来たのには、腹が立ったよ。振られたのも
おれだ。それに別れる前から頭に来てた。動機は十分にあるけど、おれには殺せない」
 京一は立ち上がり、沙矢のあごをしゃくる様に、指で持ち上げて、
「おれが殺せない、ということは、あんたにも殺せないんだ。――お前が殺したんだろって、言い返してやりたいけどな」
「どうして、そう断言できるのよ。もちろん、私は殺してないけど……」
と、沙矢は京一の手を払った。
「おれは、浩幸を見つけるまで、恵とずっと一緒に居たんだ。でも、恵は浩幸を見つけると、すぐにどっかに行っちまった。追おうと思ったけど、浩幸のこともあって、やめてこの部屋に戻ったんだ。――あんたが出てくるまでに、二分あるか無いかだ。五階で恵を殺して、戻ってくるのは不可能だよ、二分じゃ。細工だけでも大分かかる。――だから、あんたにも殺せない。殺す時間なんて無いんだ」
「恵姉さんと京一君が、一緒に居たなんてわかんないよ」
 京一はため息をついて、
「もし、そうだとすると、あんたにも殺すことはできた」
「無理ね。私はずっと四階に居たんだし」
「多分そうだろうな。――どうだ、互いに疑うのはやめにして、上と下、二手に別れてから、どこで、何をしてたかぶっちゃけねえか?」
と、京一は言って、「疑うのは無しだ」
と、強調した。
 沙矢は少し考えてから、
「いいよ」
と、言った。
 京一は恵が姿を消したところまでを説明した。
「その、恵姉さんの逃げ方おかしくない?」
と、沙矢が訊いた。
「確かにな。まだ、死んでるともわからないのに、私、知らないわよ、だもんな。動揺し過ぎだ」
「まさか、浩幸君は恵姉さんに殺されたんじゃ……」
「無理だろ。おれと一緒に行動してたんだから」
「そっか……。それから、どうしたの?」
「浩幸の胸なんかに耳を当てたりしてると、あんたの呼び声が聞こえて来たんだ。
それで――そうそう。それで、階段へ飛び出したんだけど、これ、拾ったんだ。」
と、京一はピルケースをポケットから出して、沙矢に見せた。
 今晩、京一が浩幸に渡し、浩幸の死体の傍に転がっていた物だ。確か、中身はMDMAと赤色のカプセル……。
 沙矢は、ピルケースを手に取り、開けて、
「何、この錠剤」
「エクスタシーだよ。赤色のは謎」
「赤? 全部水色だけど」
「へ?」
 京一は、奪う様にして、沙矢からピルケースを取った。
 確かに赤色のカプセルは、無い。
「浩幸が飲んだんだな、きっと。――本当は赤いカプセルが入ってたんだ。」
と、京一は言った。
「そうなの……。赤い、カプセル……?」
と、沙矢は遠くを見て、意味あり気に首をかしげた。
「どうした?」
 沙矢は首を振って、
「何でもない」
 でも、何か引っかかるんだよね、と沙矢は、付け加えようとして、やめておいた。
「そうか。さぁ、次はあんたが話す番だ。二手に別れてからどうしてたか話してくれ」
と、京一は言った。
「わかった」
 沙矢は、壁にもたれて、「私達は、すぐに四階の隠し部屋に入ったの――」

「どう? すごいでしょ」
と、浩幸は、隠し扉が閉ると言った。
「こういうのって、本当にあるんだね……」
と、沙矢は物珍し気に辺りを照らしている。
 さっさとベットに腰を下ろした浩幸は、
「来なよ」
と、手招きをした。
 沙矢は隣に座って、
「エッチする?」
「当たり前だろ」
と、浩幸は微笑んだ。
――ムード? そんなもんは、要らない。
 五分後には、浩幸は射精していた。浩幸は少し早漏――いや、大分早漏なのである。世界は、広い。
 いつもなら、続けてもう一発――もう三発ぐらいかな?――するところであるが、浩幸はペニスを抜いてしまった。
「何で、抜いちゃうの」
と、沙矢が不満気に言った。無理もない。
「ちょっと頼みがあるんだ」
「何よ」
と、怒った様に沙矢は言う。
「怒るなよ」
「怒るわよ」
「気を悪くするなよ」
「気は悪くなるわよ」
 沈黙。
 沙矢は起き上がって、
「もう、エッチしないからね。他の男に股開いても、文句言わないでよ」
と、スカートを元の位置に直し、ショーツをはいた。
 浩幸は、息をついて、
「それで、頼みは聞いてくれるのか?」
と、疲れた声で訊いた。
「何? お金は無いよ」
 沙矢はいつもの調子に戻っている。
「喘いでくれない? 大声で」
「私、風俗嬢じゃないんですけど」
「三分でいいから」
「カップヌードルでもないんですけど」
 一向に話が進まない。
「どうして喘いでほしいの?」
と、沙矢が訊いた。
「京一達をおどろかしに行くから、足音がわからない様にしてほしいんだ」
「どうして、おどろかすのよ? そこまで手を込めて……」
「おれは年下思いなんだ」
と、浩幸はとぼけて言った。「おどろかして、いいムードにさすんだ。あいつ等初対面だろ? きっかけがなきゃね」
 ドラマの見すぎだろう。
 浩幸は、真剣な顔で続けて、
「あいつ等がおれ達を探しに来たら、厄介だろう? いいムードになってりゃ、わざわざ、おれ達を探すことは、まずない。――足場板もどけておくから、あいつ等が勝手に帰ることもない」
 
「――そう言ったのか、浩幸が本当に」
と、京一はおどろいて訊いた。
「うん。今、思い出した。多分、言ってたと思う」
「そうか……」
 足場板は、どこにも見当たらないし、他に出る方法があるんだろう、と京一は少し胸をふくらませた。――帰れる確立は高くなった!
――二人は、三階と五階の間の四階部に当たる隠し部屋へ来ていた。
「それから、どうしたんだ?」
と、京一が訊いた。
「喘いだの。聞こえてたでしょ?」
と、沙矢にはめずらしく(?)、照れた様に言った。
「で、浩幸は二階の隠し部屋に隠れたのか。――いきなり出て来て、おどかそうと、したんだろうな」
 沙矢は、目を伏せて、
「そうだね」
と、ポツリ、呟いた。「どうしてだろ」
「わかんねえな。――自殺だろうけど、理由がわからない」
 京一は少しためらって、「おれ達の他に誰か居るとか……。そいつに殺されたのかもしれねえ」
と、一点を見つめて言った。
「そんなことって……」
と、沙矢は呟く様に言って、京一に身をにわかに寄せた。
「ないだろ。そんなんが居て、気付かない方がおかしい」
「でも、もし……」
「居るならまだ、ありがたい。この手でやり返せるわけだ」
「京一君、喧嘩強いの?」
京一は薄い笑みを浮べて、
「弱い」
と、断言した。
 沙矢はため息をついて、
「それじゃ駄目だね」
「おい。言いにくいことをはっきりと言うなよ」
「ごめん」
と、沙矢は頭をたれた。「でも、もし、そんな奴が居るなら、私たちもさっさと殺してくれたら、いいのにね」
「おれはごめんだ。あんたも、死ぬなんて考えるな。辛いのはわかるけど、死んでも何もならない。それに――」
 京一は沙矢をまっすぐに、見つめて、「アンパンも食えなくなってしまう」
 あまり、問題ではなかった。
「ま、とりあえず、死ぬなんて考えるな」
と、京一は言った。
 そして、思いついた様に、
「あの悲鳴は、何だったんだ?」
と、訊いた。
「悲鳴?」
と、沙矢は首をかしげた。
「喘ぐのをやめて、すぐに悲鳴を上げたろ」
「ああ……」
 沙矢は、白けた顔で、「言わなきゃ駄目?」
「ぶっちゃけるって言っただろ」
「わかった……」
と、沙矢は少し口を尖らせて、「ゴキブリが出たの。十匹ぐらい。もっと居たかも」
「どうして、逃げて部屋から出なかったんだよ?」
 沙矢は、大いにためらって、
「逃げ出せなかったの」
「どうして」
「どうしてもなの」
「もっと具体的に言えよ」
「具体的にって?」
 京一は少し考えて、
「腰ぬかした、とか」
「ああ……」
と、沙矢は呟いた。「ま、そんな感じかな」
 どうも曖昧である。
 少し、間があった。
「気を失ったの」
と、沙矢が言った。「嘘じゃないよ」
「どうして?」
と、京一は不思議そうな顔をして、「どうして、気を失ったんだ?」
「ゴキブリが出たの」
と、沙矢は早口に言った。
「それは、さっき聞いた」
「なら、わかるでしょ?」
と、沙矢は上目遣いで言う。
「何が」
「気絶した理由」
 京一は、一所懸命に理由を推理した。
 が、
「わからねえよ」
と、言った。
 沙矢は、京一を見つめて、
「ゴキブリが出たら、気を失ってしまう、女の子も世の中には、居るの。――例えば、ここに」
 京一は、ただ、沙矢を見据えるだけであった……。


5、殺人犯と自殺者

 完全深夜型でない人間にとって、午前二時五十分にもなれば、覚醒剤でも打たない限り、睡魔は必ずやって来る。
 人間の死体――それも、死にたてほやほやの――を一体や二体見たぐらいでは、覚醒作用はあまり続かなかったらしく、二人はベットの上で、今、正に睡魔と闘っていた。
――いや、正確に言うと、京一はすでに落ちていて、沙矢は一分に三十回のペースで
欠伸をする、といった具合である。
 沙矢は、隣で眠る京一に必死(?)で、
「京一君、京一君。寝ちゃ駄目よ」
と、囁きかけていた。
 断っておくが、今は夏である。喩え、全裸で道端に転がって、寝ていたとしても、凍死することは、まずない。
 それでも沙矢は、必死(?)に、
「京一……く……ん……」
もう、へばりそうだ。
 やはり、沙矢も京一と同じく、意識がだんだんと遠退いて行ってしまうのであった……。
 そして、ゆっくりとまぶたが閉じ……て……、
「京一君!」
と、言って飛び起きた。
 さすがに、描写している作者も、これにはおどろいた。
「ねえ、起きてよ」
と、京一の体を揺さぶってみる。起きない。
「ねえってば!」
と、ビンタしても起きないので、沙矢は拳を握った。
 そして、それは……京一の股間に勢いよく落ちて行く。
 あぁ……睾玉に当たった。
 京一は、火であぶられたスルメイカの様に、体をよじりながら、かすかに目を開けた。
「京一君!」
 京一は何も言わない。「大丈夫?」
と、沙矢は京一の顔を覗き込んだ。
「貴様……」
と、京一は呟いて、目が黒くなくなってしまった……。
 
 つまり、白目をむいた。というわけで、死んだわけではなく、三分後には、
「まったく。勃起不全になったら、どうすんだよ……。起つかどうか試さなきゃいけねえな」
と、目をさまして、ぶつぶつ文句を言っていた。
 ただの文句ではない。
 京一としては、――少々不謹慎だが――これをきっかけに、口淫を……そして、セックスを始めたいのである。
 しかし、沙矢は、
「だから、それどころじゃないんだってば」
と、京一の気持ちを無視していた。
 そして、とうとう諦めたのか、京一はため息をついて、
「何だよ」
と、訊いた。
 沙矢は、ほっとした様に、
「ごめんね」
と、言った。「ちょっと気になったことがあったから……」
 ちょっと、じゃないだろ、と京一は口の中で呟いて、
「何が気になったんだよ」
「うん」
 沙矢は、まっすぐ京一を見つめて、「京一くんは、どうして、ヒロ君の持ってたピルケースに、赤いカプセルが入ってたのを知ってたの?」
「そりゃぁ、おれが用意して、浩幸にやったクスリだからだよ。――知らなかったのか?」
「知らない」
と、沙矢は言った。「誰から買ったクスリだったの?」
「誰からって――どうして、そんなこと訊くんだ? 必要ないだろ」
「あるの」
と、沙矢は早口に言った。「誰から買ったの?」
 京一は、少し間を置いて、
「流伊って男だよ」
と、京一が言うと、
 沙矢は、
「やっぱり……」
と、聞き取れない様な、小さい声で言った。
 そして、京一には、それが聞き取れなかった。
 沙矢は、放心したかの様に、ぼんやりとして、京一の胸にもたれかかる。
「どうした」
と、京一が言った瞬間、二人のペンライトの明かりが、一つ弱くなり、一分としない内に、照らす能力の無い、ただの光の点になってしまったのだった。
「とりあえず、三階にでも降りるか」
と、京一は、胸にもたれかかって動かない沙矢を、体から引き離した。「ここよりは、いくらか明るいだろ」
確かに、窓の無いこの部屋より、窓がある他の部屋の方が多少明るいはずである。
 京一は、携帯電話のディスプレイの明かりを頼りに、隠し扉まで歩いて行った。
 携帯を閉じて、扉を開く。
 京一は階段へ出た。
 上の階の入り口からも、下の階の入り口からも、淡い光が漏れている。
 月の明りも捨てたもんじゃないな、と京一は薄く微笑んで、後ろを振り返った。
 隠し部屋の中に、沙矢の白い肌が浮いている。
 それは、ゆっくりと月光に導かれながら、京一の方へ向かって歩き出した。
 そして、隠し部屋から階段へ出ると、上へ向かって登り始める。
 京一は、少しあわてて、
「おい。そっちじゃねえぞ」
と、沙矢の手首をつかんだ。
 沙矢は、おもむろに振り向いて、
「放して」
と、かすれた声で言った。
「どうしたんだよ、さっきから。何かあったのか――」
 沙矢は、京一の言葉をかき消す様に、
「放してよ!」
と、怒鳴った。「放して、放して!」
と、京一を振り払おうと暴れ出す。
「落ち着け!」
と、言う本人もあまり落ち着いていない。「何なんだよ! いきなり」
「殺すのよ」
と、沙矢は言った。「殺すの!」
「誰を?」
 沙矢は動きを止めて、
「恵姉さんに、決まってるじゃない」
と、再び暴れだした。
「何でだよ」
――京一の顔にビンタが飛んだ。「痛てぇな、コノ――」
もう一発……。
「理由を話せよ」
 京一はめげなかった。
「わかんないの? ヒロ君はあの女に殺されたんだ! だから、私があの女を殺してやるのよ」
 沙矢が何を喚いているのか、京一にはわからなかった。
 恵が浩幸を殺したって? そんな、馬鹿な!
「詳しく話せ。あんたにわかっても、おれにはわからないんだ」
と、京一は言った。「納得がいったら、ナイフも貸してやるから」
「ナイフ?」
 沙矢の動きが止まった。
「そうだ」
と、左足のズボンの裾を持ち上げて、足首を見せた。
 皮のケースにつつまれた、全長二〇センチほどのナイフがくくり付けられている。
「本物?」
と、沙矢は訊いた。
「本物だ」
 京一は、沙矢から手を離し、足首にくくり付けられたナイフを引き抜いて、「護身用」
と、沙矢の左の乳房に先端を押し付けた。
 沙矢は、つばを飲み込んだ。
 ナイフは、乳房をくぼめながら、下へゆっくりと下がって行く。
 京一は、ナイフを離して、
「よく切れるだろ」
と、左手の人差し指と中指で、ナイフで切った、三センチほどの切れ目を広げた。
 半ば、水色のブラにも切れ目が入っている。
「すごい」
と、沙矢は呟いた。
「そうだろ」
「うん」
と、沙矢は下唇を上唇の中にすぼめて、頷く。「一発で乳首の真上突くんだもん」
「おい」
と、思わず、京一は手の甲を沙矢に当てた。「切れ味の話だよ」
「え? 切れ味?」
と、沙矢は、切られた所を手で確認する。「やぶけてる……」
「いい切れ味だろ」
「京一君って――」
と、沙矢は京一を見た。「そういうのが好きなの?」
「どういうのだよ」
「ストッキングやぶきたい、とか、服を引き裂いてレイプしたい、とか」
「あんた、変態だろ? どうして、そんな発想が出てくるんだよ」
と、顔をしかめて、京一は言った。
「だって、おっぱいの上。やぶくんだもん。だいたい、服やぶく行為自体おかしいじゃん」
と、沙矢はふくれっ面で言う。
 京一は、じっと沙矢を見つめてから、階段を降り始めた。
「あんまり、細かいことを気にしてると、早く老けるぞ」
 乳房の上を切った言い訳が、できなかったらしい。
 他を切ると地肌を傷付けるから……。
 とは、思っても言わなかった。
 だって、少しは下心があったんだよ。悪いか?
「あとで、ちゃんとナイフ貸してよね」
と、沙矢も階段を降りた。
 少し――いや、大分落ち着いた様子だ。しかし、恵への殺意(?)は、まだ抱いているらしい。
 三階は思いの外明るかった。
 互いの姿が、はっきりと見える。
 念のため、入り口を見てみた。やはり、足場板は無い。
 京一は窓際の壁にもたれて、腰を下ろした。いつか、恵と肩を並べた所と、同じ所だ。 
 沙矢も隣に座る。
 何を考えているのやら、どちら共、口を開かずに正面にある、階段の入り口を見つめていた。
 いや、虫の鳴き声に、聞き惚れているのか……。
リーン、リーン。
 キリキリキリ。
カカカカカ。
ミーン、ミン、ミン、ミン……と、聞こえたか、どうか……。
 聞き惚れるには、十分だった。
 ふと、虫が鳴き止み、二人を静寂がつつんだ。
 二人は、何かに気付いた様に、顔を見合わせ、
「ねえ」
と、口をそろえて、「何?」
と、もう一度、口をそろえた。
「今、何を考えてたんだ?」
と、京一が訊いた。
「何か、虫の声って、ほっとするなって」
と、安堵感のある、柔らかい笑みを浮べて、前に向き直り、フローリングに目を落とした。「京一君は?」
 京一も、沙矢と同じく、フローリングに目を落として、
「あんたと似た様なもんさ」
と、微笑んだ。
 いつの間にか、虫達は再び鳴き始めていた。
「キス、しようか」
と、京一が、少しぎこちなく訊いた。
 別に――意外じゃなかった。
 京一にしても、沙矢にしても、キスは、意外なことじゃなかった。
 ただの友達でも、キスはするし、何より今は、少しでも安らいだ時間を味わいたかったから……。
――死んだ二人も許してくれるさ、と京一は思い、
沙矢も、また、
――死んだら、ヒロ君に謝りに行こう、と思った。
 考え方は、少し違っていたが、安らぎを感じたかったのは、二人共同じだった。
 二人は、唇を重ねた。
 三秒とない。フェザーキス。
 唇が離れると、
「これ以上はなしね」
と、沙矢は言った。
 京一は、姿勢を整えて、「そうだな」
と、言った。「続きは、帰ってから、ゆっくりと楽しもう」
「帰れたらね」
と、沙矢は微笑んだ。――そう、ただ微笑んだだけ……。
 まるで、帰れなくてもいい、と思っている様だった。
 しかし、冗談にしか聞こえなかった京一は、
「さぁ、話を聞こうか」
と、笑いかけた。「どうして、恵が浩幸を殺した、と思うんだ?」
 沙矢は、座り直して、
「ただの推測だよ」
と、言った。「京一君は、流伊から買ったクスリをヒロ君に渡したんでしょ?」
「そうだよ」
「じゃあ、恵姉さんと流伊が知り合いなのは知ってた?」
「知ってるさ」
と、京一は苦笑いを浮べた。「だって、流伊は恵に紹介してもらったんだ」
「そうなんだ」
と、沙矢は少し目を丸くした。
「あんたは知ってるか?」
と、京一が訊いた。
「何を?」
「恵と流伊の関係」
「友達でしょ」
 京一は、含み笑いを浮べて、
「知らないんだな。――流伊は恵の彼氏さ。つまり、恵はおれと流伊に二股かけてたわけ」
 次は、本当に目を丸くして、
「知らなかった」
と、沙矢は言った。「やるわねえ、恵姉さんも」
「妙な所に感心するない!」
と、京一は、怪訝そうな顔をした。「ちなみに言って置くと、それが、別れる前から頭に来ていた理由だよ」
と、ふくれっ面になって言った。
 沙矢は、京一の言葉をかわして、
「京一君からすれば、流伊は恵姉さんの浮気相手でしょ? どうして、わざわざ紹介なんてしてもらったの?」
「そりゃ、流伊と恵の仲を探る為だよ」
「そんなことして、どうするの? もし、自分より相手の方がいい感じの仲だったら、惨めじゃない?」
「惨めだよ。――でも、もしそうだとしたら、別れやすいじゃないか。あいつには、自分より好きな男ができたってね」
 沙矢は少し首をひねって、
「それ、諦めやすいの間違いじゃない?」
 京一は、少し考えて、
「世間一般では、そういう」
と、真剣な顔で言った。
 さすがに(?)沙矢も、苦笑いを浮べた.
「それで、どうだったの?」
「何が?」
「流伊と恵姉さんの仲」
「ああ」
と、京一は、目を伏せた。「恵が流伊に、ベタ惚れだよ。――いや、クスリにかな」
「クスリ?」
「そう。――流伊は、エッチの度に恵にクスリキメさせてたんだ。そのまま、クスリ漬けにして、体売らすつもりだったんだろうな」
「それって、どういう意味?」
 京一は、疲れた様な笑みを浮べて、
「そのままの意味さ。恵は、クスリをキメてするエッチが、気持ち良いから大好き。流伊は、恵が中毒になれば、クスリをやるから体売って、その金をよこせって、言うだけ。――本当に、そのままの意味だよ」
「そう……」
と、沙矢は呟いた。「何だか悲しいね。そういうのって」
「そうだな。おれからしても、悲しいし、恵からしても、悲しい」
「恵姉さんは、京一君のことどう思ってたんだろ?」
「早く別れたくて仕方無かったんだと思う。恵が流伊と知り合ってから、おれに対する束縛がきつくなったから」
「どうして、京一君が束縛されるの?」
「一つでも約束やぶったら別れる口実ができるだろ? しかも、悪いのはおれで、自分は被害者になれる」
「そっかぁ……」
 沙矢は苦笑いを浮べて、「どうして、京一君は恵姉さんを振らなかったの?」
「いつか、クスリから逃れたくなった時に、しらふの人間が居ないと困るだろ? それに、時間がたてば、自然におれの元へ帰ってくると思ってた」
 沙矢は、京一の方を向いて、
「いい人ね。京一君は」
と、少し首を斜めにして言った.
「いい人、というより、人がいいんだよ」
と、京一は笑って言った。「さぁ、本題に戻ろう、推測の続きをきかせてくれ」
「何だか言いにくくなった」
と、沙矢は左の頬を歪める様に力を入れた。「もしかすると、恵姉さんは京一君を殺そうとしたのかもしれない」
と、俯いたまま続けた。
「おれを?」
と、京一は、にわかに目を開く。「どうして」
「別れる為なら殺すってこともありうるでしょ?」
「ドラマの見すぎじゃない? おれは、ヤクザ者でも、何でもないんだぜ。一言別れてって言えば、それで済むんだ。――実際、こうして、別れてるし」
「でも、ヒロ君を殺す動機もわからないし、ヒロ君のことを前から知ってたかもわからないよ?」
「と、いうより、本当に恵が浩幸を殺したのかなんてのも、わからない」
沙矢は、首を振って、
「それは、確か――多分、確かなの」
と、矛盾したことを言った。「赤色のカプセルでしょ?」
「ああ」
「しかも、半透明じゃない、不透明な」
 京一は、感心した様に、
「よく、知ってるな」
と、目を丸くして言った。
「前に恵姉さんに、見せてもらったことがあるの。――誰かを殺したい、とも言ってた」
「恵が?」
と、京一は、若干眉をひそめる。
 沙矢は、ゆっくりと頷いて、
「誰、とは、はっきり言ってなかったけど、誰かを殺すつもりだったみたい。」
そう、確かあれは、クラブ p>で――

「殺したい男が居るのよ、私」
と、恵は、モスコミュールが入ったグラスをかたむけて言った。
 隣に、立っている沙矢は、「殺したい?」
と、訊く。
 二人は、ダンスフロアのほぼ中心にあるバーコーナーに居た。
 辺りでは、トランスの爆音に合わせて、リズミカルに男女が踊っている。
「そう、殺したい男が居るの」
と、恵が言った。
「誰なの?」
「それは、内緒。――そんなことより、これ見て」
と、恵は、コンタクトレンズのケースをカウンターの上に置いた。
「恵姉さんのカラコンのケース?」
と、訊いて、沙矢はケースを手に取った。
「右のふた、開けてごらん」
 沙矢は黙って、R、と書かれた方のふたを開ける。
 カプセルが一錠――赤色で不透明のカプセルが一錠入っている。
「何、これ?」
「シアン化カリウム――青酸カリとも言うわね」
 沙矢は、特におどろくこともなく、平然として、
「それで殺すの?」
と、訊いた。
 恵は目を据わらせて、
「ちょっとぐらい、おどろきなさいよ」
「だって、青酸カリなんか珍しくないじゃん」
「漫画や小説の話でしょ。本当に人を殺すのに使うのは、珍しいわ」
「そうかな」
と、沙矢は少し首をかしげた。「どこで手に入れたの?」
 恵は、モスコミュールを全部飲みほして、
「めっき剤の加工工場で働いてる知り合いが居るのよ。――ちょろまかしてもらったわけ」
「ふーん」
と、沙矢は、赤色のカプセルを見つめていた。そして、おもむろに顔を近づけて、匂いを嗅ぐ。
「何の匂いもしないよ」
と、沙矢は言った。
「当たり前でしょ」
「そうなの?」
と、沙矢は首をかしげた。「アーモンドみたいな匂いとか、杏みたいな匂いが、するんじゃなかったっけ?」
「カプセルに入ってるのよ? それに、こんな色々と匂いがある場所では、わからないわよ」
「つまんないの」
と、沙矢はケースにふたをして、恵に返した。「でも、こんなので殺したら、すぐに捕まっちゃうんじゃない?」
 恵は、ふふっと笑って、
「大丈夫よ。私が直接飲ますわけじゃないから。――知り合いに、流伊って麻薬の売人が居るの。運良くターゲットは、流伊から出回ってるクスリを飲んでる。麻薬に紛れ込ませて渡せば、自分で飲んでくれるわ」
 
「――本当にそう言ったのか?」
と、京一が訊いた。
「うん。絶対」
「ターゲットは、流伊から出回ってるクスリを飲んでるって、本当に言ったのか?」
「そうだよ。絶対そう言ってた」
「そうか……」
と、真剣な顔つきで、京一は言った。「確かに、恵の言うターゲットに、おれは該当するな。
それに、浩幸の鼻に耳を近付けた時に、何やら甘い匂いもした。アーモンド、と言われればそんな気もする.――状況から考えて、恵がおれに青酸カリを飲まそうとした確立も高いな」
「京一君には悪いけど、多分、そうだと思う」
と、沙矢は言った。「恵姉さんが自殺したところから見ても、間違いないだろうし……」
「そうだな」
 京一はため息をついて、「間違えて人を殺しちゃ、自殺もしたくなるわな」
「うん……」
 しばらく、間が空いた。
 嫌な沈黙だった。
 京一は、それから逃れようとしたのか、携帯電話をポケットから取り出して、サブディスプレイで時刻を確認した。
――三時十六分。
「ちょっと、訊いていい?」
と、言ったのは沙矢だった。
「何?」
「恵姉さんに、どうして振られたの? 何か約束やぶった?」
 京一は、肩をすくめて、
「他の女と、手をつないで歩いてたら、恵と鉢合わせたんだ。その場でビンタ食って、振られたよ」
「何だ――」
と、沙矢は口を尖らせて、「京一君も、浮気してたんだ。ちょっと、幻滅」
「おれが手をつないでたのは、盲者だぜ? 人ゴミん中ふらふら歩いてたから、危ないと思って手を引いてやったんだ。――それでも浮気か?」
 沙矢は、丸い大きな目で京一を見つめて、
「本当?」
「本当さ」
「じゃあ、どうして、恵姉さんに言わなかったの?」
「おれは、言いわけしなきゃいけない様なことはしていない。それに、他の女と手をつないでたのは、事実だ。何を言っても、振られてたよ。――さっきも言ったけど、あいつはおれと別れたがってたんだ。口実が作れりゃ、何としてでも振るさ」
「そっか。じゃあ、やっぱり、いい人だ」
と、沙矢は、猫みたいな口を、さらにそれっぽくして笑った。
 京一も微笑んで、
「わかんないぞ。実際、こうして女ネタに来ているし、最初の頃は、あんたとエッチしたいと思ってた」
「いいんじゃない? もう、恵姉さんとは別れてるんだしさ」
「あんたのパンツ見て喜んでた」
「健康な証拠だよ」
と、言って、「もう一回喜ぶ?」
と、沙矢はスカートをめくって見せる。
 京一は、沙矢のショーツを直視してから、苦笑いをして、顔ごと目をそらした。
「京一君のも見せてね」
と、言う沙矢の言葉に、京一のズボンのジップが下げられて、あんなエッチなことや、こんなやらしいことが始まると、期待した人にはもうしわけないが、沙矢がめくったのは、左足のズボンの裾だった。
「もう、借りていいよね?」
と、沙矢は訊いて、ナイフの柄に手をかけた。
 京一は、黙って動かない。
「借りるね」
と、沙矢はナイフを抜き取る。
「どうするんだ」
と、京一は訊いた。
「ナイフは物を切る為にあるんだよ」
「恵を切るのか? 刺すのか?」
 沙矢は立ち上がって、
「わからない。やめて帰ってくるかも」
「もう、あいつは死んでるんだ」
 沙矢は、京一の言葉を聞かずに、
「最後にキスして」
と、京一のあぐらの上にまたがって座った。
 京一の首に腕をかける。
「キスだけね」
と、沙矢は言って、少し腰を後ろに引いた。
 京一は、何も言わなかった。ゆっくりと上を向く。
今度も、軽いフェザーキスだった。
 この体勢では、フェザーキスしかできなかった。
 沙矢は、立ち上がって、
「それじゃあ、行ってくるね」
と、階段に向かって歩きだす。
 そして、階段を登り始めた所で、呟いた。
「ばいばい」
 京一に聞こえたかどうか……。
 それぐらい小さい声で、沙矢はそう呟いたのだった。
 行かせてよかったのだろうか? と、京一は思った。
 どうして、そう思ったのかはわからない。ただ、沙矢からは、殺意――と、言うものだろうか。そんな感じのものが、まったく無い様に思えた。
 京一は、首を振って、
「仕方無い」
と、声に出して呟いた。
――もう、行ってしまったんだ。仕方無い。あの子が何をしても仕方無いんだ。――そう、何をしても……。
 浩幸は恵に殺された。いや、断定はできないが、状況的に多分そうだろう。
 恋人を殺されたら?
 おれも、あの子と同じことをする。
 しかも、恵は最初から浩幸を殺すつもりだったのかもしれない。
ターゲットは、流伊から、出回っているクスリを飲んでいる
 もし、恵が殺そうとしていた相手が、流伊から直接クスリを買っている人間だったら、出回っている、なんて、言い回しをするだろうか? いや、しないだろう。
買っている、というのが普通だ。
つまり、恵が殺そうとしていた相手は、流伊から直接クスリを買っていない人間、ということになる。 
 そして、おれは流伊から買ったクスリを全て浩幸に回していた。自分も使うならともかく、全て他人に回す奴なんて、おれの他に居ないだろう。
 恵が浩幸を狙ったとして、外れることは無かったんだ。
 しかし、どうして、恵が浩幸を狙ったりしたんだ?
 二人はもともと知り合いだったのか?
 何もわからない。
 恵が浩幸を殺そうとし、殺した、という確立は極めて高い。
 けど、何もわからないんだ。証拠が何一つ無い。
 そんなもんがあったとしても、もう、恵を責めることも、護ることも、何もできない。
 何も?
 いや、違う。今、あの沙矢という子は、死んだ恵に制裁を加えに行っている。
 まだ、帰って来ないのだろうか?
 京一は、携帯電話のサブディスプレイを見た。
 三時十九分……二十分に変わったところだった。


6、自殺の動機

「おかしい」
と、京一は呟いた.
 もし、恵が最初から浩幸を殺すつもりだったのなら、どうして恵は自殺したんだ?
 やはり、おれを殺すつもりだったのか?
 それとも、罪悪感にでも駆られたか?
 答えは、出なかった。
 そして、もう一つ、おかしいことはあった。
 現在時刻は、三時三十分。
 沙矢が上に上がってから、十分はたつ。
 そんなに長い間、恵を切り、刻み、刺しているのか?
 京一は首を振った。
 いざとなったら、迷っているのかもしれない。あと、五分たって戻って来なかったら、様子を見に行こう。
 携帯電話のアラームを三時三十六分にセットした。
 三十五分にセットしたのでは、実質四分少々で、アラームが鳴ってしまうからだ。
 酒井京一、十六歳。妙なところで、律儀な奴である。
 京一は、頭の上で手を組んで、伸びをした。ついでに欠伸も出る。
 そして、そのまま仰向けに寝転がった。
 行動を起こす予定もある。それまでに少し時間もある。
 何か、一段落ついた気分だ、と京一は思った。
 確かに、沙矢が戻って来れば、段落はつく。
 帰る方法を見つけて、帰れば、あとは警察にまかせておけば、全ては自然に収まるのだ。
 誰が誰を殺した、誰が誰に殺された――そんなもん、別におれが考えなくていいんだ。
 そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
 疲れた様な笑みだった。
 京一は、目を閉じた。
 宙に浮いているかの様な錯覚に、襲われる。
 そして、そのまま、意識が遠退いて行ったのだった……。
 
「おい、起きろよ、京一」
と、言う男の声で京一は、目をさました。
「もう、昼か?」
と、京一は、いすに座り、机に伏せていた顔を上げる。
 目の前には、学生服を着た――と、言っても、ワイシャツしか見えないのだが――男子が前の席のいすに、後ろ向けに腰掛けて座っていた。
 制服は、京一の地元公立中学の制服である。
 胸のポケットに校章の入った、半袖のワイシャツに、グレーの長ズボン。
 そして、また、京一もその制服を身に着けていた。
――ここは、とある小さな田舎町の、小さな公立中学校の教室。
「お前、どうせ早弁して、弁当残ってないんだろ?」
と、京一の前に座っている男子が答えた。
 京一は、伸びをして、
「三時間目の授業には、完食してたな」
と、欠伸をした。
 今は、四時間目の授業が終わったばかりの、昼食の時間。あと、十七、八分で昼休みが始まる。
 それまでは、教室の外に出れない決まりだ。
「よし、じゃあ、さっそく体育館裏へ行こう」
と、男子は立ち上がった。
 決まりはあって無きのごとし?
 京一も、立ち上がった。
 出入り口に向かって歩く。
「二人共どこに行くの!」
と、後ろで、担任の女教師の声がした。
 しかし、その時にはもう、二人は足早に教室を出ていたのだった。
「あの先公も、よく頑張るよな」
と、京一と一緒に階段を降りる男子――言っておくが、男子と言う名前ではない。須堂啓拓という――が言った。
「頭が弱いんだろう」
 啓拓は笑って、
「その通りだ」
と、言った。「この間なんて、チョークの粉まみれで授業してたしな」
「水、かぶってから、授業してたこともあった」
「あった、あった」
と、啓拓は手を叩いて笑った。「確か先月だよな? それ。もう、六月で暑くなってきたから、かぶらせて、やったんだ」
「でも、立派なもんだ。あいつ、今年から教師デビューだろ? それにまだ二十三歳だし、あんな嫌がらせを我慢しなくても、転職だってできるし、結婚してもう職に就かないことだってできるんだ」
 啓拓は、京一をチラっと見て、
「お前、何であいつの歳とか今年がデビューとか知ってんの? それに、何かあいつの肩持ってない?」
と、言った。「もしかして、あいつにラブレター送った生徒って、お前?」
 そうだ、なんて正直に言えるか!
「違げえよ」
と、京一は言った。
 二人は、校舎から出て、体育館に向けグランドを横断していた。
 七月の日差しは、にわかに陽炎を造り出している。
「実はよ、昼休みになったら三組の原田が来るんだ」
と、啓拓は言った。
「どこに」
「体育館裏だよ」
「何しに」
 啓拓は、にまり、と笑って、
「お前に、告白されに、だ」
 京一は、何も動揺せず、
「何で、おれがあいつに告白するんだ?」
「お前なら、落ちるかもしれないだろ」
「落ちるかも?」
「そうだ」
「逆に言えば、落ちないかもしれない、ってことだ」
「自信ないのか?」
「確実に落ちるよ」
と、京一は言ったのだった。「――それで、どうすんだよ? 告白して付き合えたら何か特典あるのか?」
「特典って……。原田と付き合えるだけで十分じゃないか」
 京一は、ハハハと、わざとらしく声を出して笑った。
「同い年なんて興味ねえよ。年上好みなんだ、おれは」
 これをませガキと言うのだろうか。
 京一は続けて、
「だいたい、何で告白しなきゃならないんだよ?」
「だから、言ってるじゃねえか。お前なら、落ちるかもしれないだろ?」
「そうじゃなくて、告白する必要がどこにあるんだ?」
「それは……」
 二人は、体育館裏に着いた。
 啓拓は、地面に腰を降ろして、
「三年生が原田を狙ってるらしいんだ」
「それで?」
「他に彼氏が居たら、諦めるだろ」
「どうかな。1年生の彼氏じゃわからねえな」
 啓拓は、ズボンのポケットからシガレットケースを取り出して、
「居ないよりは、ましだろ」
と、ケースのふたを開けて、「おれ、原田が好きなんだ」
と、少し小声で言った。
 百円ライターをケースから出して、煙草も一本つまみ出す。そして、それを咥えて点火。
 一口目は肺に入れずにふかすだけ。
 妙な煙の匂いが辺りに漂った。
「混ぜてるのか」
と、京一は訊いた。
「混ぜられてるんだよ」
と、次は煙を肺に入れて、啓拓は言った。「ひどい親だと思うだろ? 子供の煙草にハッパ混ぜるなんて」
 ハッパは、マリファナの隠語である。
「でも、親父の給料日にはすき焼きとか作ってくれるんだ。すき焼きでもおれん家じゃあ高価な飯だ。何せ、親が二人共ヤク中でろくに働けないからな。月給も二人合わせて、十数万。その上、こうしてハッパやシャブ、麻薬なんかを買うから、いったい一ヶ月いくらで生活してんだよ? って感じだ。――毎日、おれが昼飯抜いてるわけがこれでわかったろ」
 京一は、あえて、
「ふーん」
と、無関心を装った。
「そう――」
と、啓拓は微笑んで、「お前は、そうやって、おれに気を遣ってくれる。かわいそうに、なんて言われたらムカつくだけだ。――お前にだったら原田を取られてもいい」
 少し間があった。
「自分が、原田と付き合えばいいじゃないか?」
と、京一が言った。
「もう、すでに三回も振られてるんだ」
「そうか。じゃあ、無理だな」
「おい」
と、啓拓は京一をおどろいた様な目で見た。「あっさりと言うなよ」
 京一は黙って、携帯電話をポケットから取り出していじり始めた。
「何やってんだ?」
と、啓拓は訊いた。
 京一は、いじる指を止めて、
「入学してから三ヶ月と十日で、三回告白してるとすると、一ヶ月に約〇・九回告白していることになるな」
 どうでもいい様なところを気にするのは、昔からのくせである。「もう一つ言わせてもらうと――」
と、京一は続けた。「その三年は原田を狙っているだけで、告白もしてないんだろ? 告白しても、付き合うかどうかさえ、わからない。――放っておいても、大丈夫なんじゃないか?」
 啓拓は首を振って、
「自分の女にするっていうのだけが、狙う、じゃないだろ? もし、まわされでもしたら、どうするんだ?」
「考えすぎだろ」
「それぐらいじゃなきゃ、いけない」
と、啓拓は、煙草を指ではじいて捨てた。「いいだろ? 原田と付き合ってくれよ。おれかお前以外の男と、原田が付き合うのを見たくないんだ。ましてや、エッチした――それも、レイプやまわしだなんて、聞きたくもない」
 自分勝手な奴だ、と京一は思ったが、あえて口にはしなかった。
 その代わり、
「わかったよ」
と、言った。「でも、タダじゃ嫌だぜ」
「金か?」
 京一は首を振って、
「あの新米の先公を、いじめるのはやめろ」
と、言ったのだった。
「どうして? おもしろいじゃねえか」
「いじめてるお前等だけだろ。おれは、ちっとも、おもしろくねえんだよ」
「そうか……。わかった。皆にも言っとくよ」
「そうしてくれ」
と、言って、「あと、あの先公に謝れ」
と、京一は付け加えた。
「何もそこまで――」
と、言う啓拓の言葉を遮る様に、京一は、
「おれは、好きでもない女と付きあんだぞ? それに、あの先公にラブレターを送ったのは、おれだ。お前等のすることをどんな気持ちで見ていたか、お前にわかるか?」
と、強い口調で言った。
「そうだったのか……。そうだと言ってくれりゃあ、すぐにやめたのに」
 京一は、ため息をついて、
「言えるわけないだろう」
「どうして」
「逆におれがいじめられるのが怖かった。――おれは十三歳だ。まだ、幼い。はっきり言ってそれは言いわけだけど、事実だ。そして、お前等もまだ幼い。やめろ、と言えば必ず、おれをいじめてただろう」
「おれは、そんなこと――」
「あるんだよ」
と、京一は、再び啓拓の言葉を遮った。「もし、お前だけがいじめをやめたら、次は、お前がいじめられるだろう。――おれも、お前も、まだ幼いんだ。いじめられるのは嫌に決まってる。だから、おれは誰も責めちゃいない。いじめ自体が悪いんだ」
「そうかもな……。悪かった」
「今さら、そんなことを言ってほしくは、ないね」
と、京一は、鼻で笑った。「おれは、イエス・キリストみたいな、善人でも、聖者でもないんだ。お前等と同じただの人間。いつかお前にも、あの先公の分を仕返す――」
 京一は、携帯電話のアラームに、言葉を切った。
「アラームなんて、セットしてないぞ」
と、言いながら、京一はアラームを消そうと終話ボタンを押す。――しかし、消えない。
「何でだ?」
 他のボタンも押してみる。
 消えない。
 アラーム音は、音量を増し、けたたましい音で鳴り響く。
「畜生」
 京一は、携帯電話を持った手を、大きく振り上げた。一気に振り下ろす。
 手から携帯電話が離れ、勢いよく地面に――。

 京一は、ハッとして、目をさました。
 腹の上で、携帯電話のアラームが、けたたましい音で鳴っている。
「畜生……」
と、呟いて、携帯電話を手に取り、アラームを止めた。
 古びた洋館に、再び静寂が舞い戻った。
 京一は、息をついた。
――今の夢、昔をそのまま再現してたな、と京一は思った。それに、少々、時間的拘束を無視してなかったか?
 おれが、寝てたのは長くても、五分。あの夢はもっとあったような……。
 ま、夢だからいいんだけど。
 京一は、寝てしまう前と同じく、伸びををして欠伸をした。
 恵が殺そうとしたのは、やっぱりおれかもしれない、と京一は思った。
 あのあと、おれは恵と付き合ったんだ。前の日に、一度告白されて保留にしていたから、付き合う、という返事だけでよかった――。

「もしもし」 
と、電話の向こうの声は言った。
男だ。
「あんた、セックス好きかい?」
と、いきなり質問したのは、京一だった。
 京一は今、恵を狙っているという、例の三年生に公衆電話から電話をかけていた。
「誰だ? お前」
と、三年生は言う。
 評判の不良なだけあって、威勢はいい。
「おれか? おれは、あんたの通う中学の一年、須堂啓拓だ」
と、京一は言った。
「一年? 年下か。何ため口利いてんだよ」
「いいじゃねえか。それより、いい女ネタがあるんだけど」
「女ネタ? 何だそりゃ」
「知らないのか? ま、無理もない。おれが、今造った言葉だからな。――簡単に説明すれば、エッチが目的の遊びだよ」
「エッチ?」
 声色が少し変わった。
「そう。好きだろ?」
「ま、まあな」
「エッチがしたかったら、おれの言うことをよく聞け」
「ああ」
「まず、相手は、輪姦を希望している。もちろんレイプでだ」
「リンカンって何だ?」
「まわしだよ」
「ああ。わかった」
「できるのか」
 少し、ためらっている様だった。
「できる」
「よし、相手は、リアルなのが好きだそうだ。要するに、叫ぶし、抵抗もするってこと。――気を付けなよ」
と、京一は、少し笑い声を混ぜて言った。
「大丈夫だ」
 三年生は、もうすでに緊張しているらしく、声が強張っている。
「善は急げだ。今から一時間後の午後九時半に K>公園に行け。相手は彼氏といちゃついている最中のはずだ。――彼氏の方に手は出すなよ。彼氏は何も知らないんだ。下手すると警察にチクられるぞ」
「わかった。でも、その相手を犯す時に、彼氏はおれ達を止めようとしないか?」
「するに決まってるだろ」
「じゃあ、どうするんだ?」
「自分で考えろ! あと、顔も隠しとけよ」
「わかったよ……」
 まるで、立場が逆だ。
「それじゃあ、九時に K>公園に行け」
「わかった」
「それで、相手には、一応おれの紹介って言っておけ」
「名前何だった?」
「須堂だ」
「了解。――ところで、相手って誰だ?」
 京一は、かすれた笑い声を聞かせて、
「一年の原田恵だ」
 そこで、京一は電話を切った。
 次は、携帯電話で恵本人にかける。
「はい」
 恵は、ツーコールで出た。
「京一だけど」
と、京一は言った。
「どうしたの?」
「今から会わない?」
「今から? つい、一時間前に別れたばっかりじゃない」
と、恵は言って、「でも、京一君がそう言ってくれるなら、私、どこへだって行くわ」
 そんな、くさい言葉に、京一は少し胸を痛ませた。
「嬉しいね」
と、京一は笑い声で言った。「 K>公園に来れるかい?」
「 K>公園?」
「そう」
「他じゃ駄目なの?」
「何で?」
「あの公園暗いし、人気も無いし、怖いじゃん」
「でも、碧姦には最適だよ」
「アオカン?」
「碧漢の漢をもじって、姦淫の姦。つまり、野外エッチ」
 間が空いた。
 恵は、いきなり吹き出したかの様に笑って、
「もう!」
と、言った。「私達、今日付き合ったばかりよ。それに、私はまだ初めて。初めては、ベットの上がいいわ」
「ならいいよ」
と、京一は、そっけなく言った。
「怒ったの?」
「いや、別に」
と、京一はなおもそっけなく言う。
「怒ってるじゃん」
「怒ってねえよ。――それより、どこで会う?」
「 K>公園……」
と、恵は小さな声で言った。
「嫌なんじゃないの?」
「別に……」
 恵は何かを続けて喋った様だが、聞こえなかった。
「何?」
と、京一は、無愛想に言う。「全然、聞こえなかったんだけど」
「ごめん」
と、恵は言った。「別に嫌じゃないよ。 K>公園に行くの」
「本当?」
と、京一は、少し明るめの声で言う。
「うん。でも、する時はちゃんとコンドーム付けてね」
 恵の声は悲しそうだった。
 こうして、二人は K>公園に、十一時十五分に集まってセックスをしたのであった。
 京一は、別に性欲に駆られて、セックスを求めたのではない。せめて、ロストバージンは、好いている相手である自分がしてやろう、と思ったからだ。
 京一は、セックスをしている間、ずっと、同じことを自分に言い聞かしていた。
 おれは、イエス・キリストみたいな、善人でも聖者でもない。ただの自分勝手な人間に、すぎないんだ。
と。
セックスが終わってすぐに、例の三年生が、仲間七人を連れてやって来た。
 車で来ているところから見て、年上もいるのだろう。
 例の三年生達は、京一達を取り囲んだ。
 全員、ベースボールキャップに、サングラスをかけている。
 暗いのに、ご苦労なこった。
 京一は、立ち上がった。
 恵を庇う様にして、恵の前に立つ。
 今さらながら、京一は後悔していた。
 何の罪も無い恵を、わけのわからない男達八人に犯させる。それも、啓拓がそう仕組んだかの様に見せかけて……。
 最低だ。おれは……。啓拓に仕返すためだけに、恵を使うなんて……。
 そう思っても、もう、どうにもならなかった。
 京一は、恵をどうにかして逃がそうと八人に――実際に、八人も相手をすることは、できないのだが――立ち向かって行ったが、甲斐なく地面に抑え付けられて何かを注射された。
 あっという間に、平行感覚が無くなり、立てなくなる。
――畜生。酒か。
 京一が、抑え付けられている間も、そのあとも、全てが終わるまで恵は叫び続けた。
「京一君!」
と。
「やめて」
「いや」
「助けて」
 そんな言葉は、少なくとも、京一の耳には入らなかった。
「京一君」
と、だけ叫んでいた。
 泣き叫びながらも、絶叫しながらも、京一の名を恵は呼んでいた。
 猿ぐつわを噛まされたのか、ボールキャップを咥えさせられたのか、言葉にはなっていなかったが、
 恵が、
「京一君」
と、叫ぼうとしていたのは、確かだった。
 それは、助けを求めての声ではなく、ただひたすら、京一の安否を確かめたくての声だった。
 京一にも、それははっきりとわかった。
 それだけに後悔は大きかった。
 そして、男達が去ってすぐに恵が京一の元へやって来たのも、京一の後悔を大きくした。
 それでも、京一は、本当のことを言えなかった。

「そして、今も言えていないんだ」
と、京一は、呟いた。
 もう、一生言うことはできない。
 でも、もしかすると、恵はおれの仕業だと気付いていたかもしれない。だとしたら、おれを殺そうとする理由に十分値する。
 携帯電話のデジタル表示の時計は、三時四二分を示していた。
 京一は、立ち上がった。
 階段へ向かう。
――あれから、三年。恵は、おれにとってずっと本当に大切な人だった。もちろん、今もだ。
 京一は、階段へ出た。
 ゆっくりと、上へ登る。
「恵……」
涙があふれてきた。
立ち止まり、涙を拭う。
――おれは、何してたんだろう?
当たり前の様に、恵と喋り、当たり前の様に、笑った。
当たり前の様に、恵と抱き合い、当たり前の様に、エッチをした。
 当たり前の様に、恵に怒り、恵に怒られ、当たり前の様に、喧嘩をした。
 当たり前の様に、恵が好きだった。
 本当に好きだった。
 愛してるか、と訊かれたら、愛してると答えられた。
 本当は好きになんて、なってはいけないのに……。
 そんな立場ではないのだから……。
 京一は、再び階段を登り始めた。
――沙矢ちゃんには、悪いけどおれも死のう。恵が生きていない、ということは、おれも生きていてはいけない、ということなんだ。
もう、京一の中に理屈など存在しなかった。
 不意に足元で音がした。
 浅い水たまりを踏む様な音……。
 京一は、足を止めた。
 どこかから、水が漏れているのだろうか?
 暗くて何を踏んだのかは、いくら目をこらしてもわからなかった。
 辺りの壁も手で触ってみたが、特に濡れている感じはない。
 何気なく、京一は階段の上へ目をやった。
 何かがある。
 いや、沙矢だ。階段の最上階に腰をかけ、横の壁にもたれながら座っているのだ。
 京一は、目にたまった涙を完全に、拭き取ってから、
「何やってるんだ」
と、沙矢に声をかけて、階段を登った。
返事はない。
 しかし、それが何を意味しているのかは、すぐにわかった。
 結論から言うと、沙矢は魂の抜け殻になっているのだ。
――三人め。
 京一は、特におどろかなかった。むしろ、おれも気兼ね無く死ねる、とほっとしていた。
沙矢は、最初から死ぬつもりだったのだろう。
「私も死ぬわ」
と、言っていた。
「殺してくれたらいいのに」
とも、言っていた。
 そして、ナイフを持ってここへ来る前には、
「最後にキスして」
と、言っていた。
 京一は、沙矢の座っている、三段下の階段の段に立って、沙矢を見下ろしていた。
 首から下は、ほごんど血で濡れていた。首を切ったのだろう。傷口がどこにあるのかは、わからなかった。
  失血しているだけだ。意識を失っているだけで、まだ、生きているかもしれない。喩え、仮死状態であっても、どうにかして、病院に連れてきゃ、蘇生したかもしれない。
 そう思いながらも、京一は沙矢を放って、恵の死体が転がる五階の部屋へ向かったのだった……。


7、幽霊達は死なない

 京一は、床に転がっている恵の死体を通り過ぎ、窓を背に出窓に腰掛けた。
 むろん、窓にガラスははまっていない。
 後ろに体をそらせば、一瞬にして谷底へ行ける。
 足も出窓の上に上げ、あぐらをかいた。
 ポケットから携帯電話を取り出す。
――三時四五分。圏外。電池残量1
 新規eメール作成の画面を開いた。
 手が震えている。
 京一は、ゆっくりと、メールを打ち始めた。
 
こわい。
 
こわい、こわい、こわい、
こわい、こわい、こわい、こわい、
こわい、こわい、
こわい、こわい、こわい、
こわい、
こわい、こわい、

――怖い!

 やがて、文字容量がいっぱいになり、打ち込みは終わった。
 メールを保存して、携帯電話本体を二つ折りにして閉じる。
 そして、腰の横に置いた。
 目をつぶると、涙が一筋頬をつたった。
 手を頭の上で組む。
 そのまま、思いっきり伸びをした。
 体が後ろに反り返る。
もう、助かる余地は、無い。
 京一の体は、宙に舞った。
 そして、頭から――。地面にぶち当たった。
 今夜、四人が集まってから、二時間五十九分二秒後のことだった。
 ゆっくりと、青みがかっていく空の下で、ゆっくりと、京一は冷たくなっていった……。

 四時。
 その声が、館の中から聞こえてきたのは、ちょうど暁の時刻――午前四時になった時だった。
「おれ達三人が死んで、ショックを受けたあいつも死ぬ。――全て、おれ達の書いたシナリオ通りだった。あいつは、何も知らなかっただろうけど……」
と、男の声。
「馬鹿な人間を死に追いやるのは、おもしろいわ」
と、女の声。
「でも、死なせるのは、もったいないくらい、いい人だったな」
と、別の女が言った。「ま、楽しみに犠牲は付きものだよね」
 三人の笑い声が重なる。
「さぁ、日の出まで、もう一時間も無い。次は世間をあっとおどろかすんだ」
と、男が言った。「二十年前と同じ様に!」
 そのあと、男一人に女二人の高らかな笑い声が、しばらく館中に響き渡った。

京一が死んだ本当の理由は、誰も、知らない……。


            了

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