妖年記

著:海流童

 
           一
 僕が家出したのは福士さんが考えたように、親とうまくいかなかったとか高校での成績が落ちたというのではない。ことの始まりは大矢瑠璃子だった。
 半月ほど前に僕が大矢瑠璃子に告白し、彼女がそれを断ったということになっている。それだけだったらどうということもない話だが、僕は大矢瑠璃子の肉体を要求し、性器を露出したというのだ。勃起した性器を露出して執拗に迫ったというのだった。
 校内に怪文書がばら撒かれ、インターネット上には『AKITU高校のエロ獣』というブログが立ち上げられた。誰がしたのか知らない。二チャンネルにも書きこみがあったという。
そんな流れから噂が収束するはずがなく、過熱する一方だった。陰口と嘲笑が続いていたらしい。

 知らなかったのは僕だけで、もう第二号の怪文書が出まわっていた。二号紙では、僕がオナペットの写真を大量に持っていて、それをおかずに一日に二回以上マスをかいているとか、大矢瑠璃子が性交を拒否すると、女性の性に関する、聞くに堪えない言葉を投げつけたとか書かれていた。それらを読んだまわりの学生は信じたのかどうか、きっと多くの者はそれを本当だと思ったに違いない。

 普段は話したこともない金本がふいに近づいて来て、
「大矢瑠璃子は女性の間では鼻つまみものだそうだぜ。美人だから男にはもてるけど、虫も殺さないような綺麗な顔なのに、性格は自己中で、凄く評判悪いんだって。同級生の田村さんがそんなふうに言っていたよ。」
 と囁くように話しかけた。
 金本は他クラスの学生だったから一面識もない。僕が大矢瑠璃子に振られたのを知るはずがない。なのに、どうして僕にそんなことを言い出すのかと驚いたのだった。
それからブログのことを知り、怪文書も見せられた。僕は初めて、自分のまわりで現在進行している事態を知って絶句した。
それから一昨日まで、つまり二日間は学校に行った。僕が事情を知ったことが解ると、友情めいたことを言う者もいたし、女生徒の中にも何かと近づこうとするお節介者もいたが、僕はそれらを純粋な好意とはとれなくなっていた。

僕はデマゴーグというものの恐ろしさを知った。悪意のある嘘に対して否定する時機を逸すれば、噂はそのまま継続する。するとその継続が重みとなって、いつの間にか事実として歩きまわるのだ。

真相はこうだ。確かに僕は大家瑠璃子に告白した。大家瑠璃子の美貌は僕にとって告白に値するものだった。そしてそのときに、彼女も最初オーケーしたのだった。
僕が大矢瑠璃子に惹かれたのは先々月のことで、図書館に寄ってさて帰ろうとするときに、大矢瑠璃子はなにかの理由で部活顧問に走らされた、きっとそうだったに違いなく、運動場の片隅に一人離れて、座って息を整えている姿を垣間見た見た瞬間だった。
背は僕より低いから、本当はそんなに高くはないはずなのに、そのときは、すらりと形よく伸びた両足の指先まで全身が桃色に染まり、肩で息をつく姿に息を呑み、それからの僕の胸は昼も夜も大矢瑠璃子の面影をさ迷った。
 その肢体が目先に揺れて患う思い、けれども彼女の視線の中に僕があるはずもない。そう思うと恋しくて苦しくて、耐え切れず、僕は思い切って告白したのだった。
彼女は僕の告白を表情も変えずに聞き終わると、急に彼女が僕に抱きついてきた。彼女の暖かな息使いとともに、柔らかい太腿の付け根辺りに僕の局部が触れ、勃起した。
 しかしそれから、悪夢を見るような、最低の時間が流れた。

 僕の性器が勃起したのを確かめると、
「ふふふ」
 と笑って僕のそばから身を引いて、
「水谷君は、あたしを永遠に愛し続けられるの?」
 と言った。そして、
「あたしだけを愛して、あたしだけに尽くして、あたしを世界一幸福にしてくれる自信があるの?」
 と流れるような声で続けた。
 僕は耳を疑い、たじろいだ。なんと異様な言葉なのだろう。少女漫画にも出てこないような台詞ではないか。大矢瑠璃子は、きっと僕をからかっているのだと思った。
 ところが彼女はそうではなかったようだ。
 なぜなら僕の表情に、大矢瑠璃子の顔がさっと変わった。
 みるみる青白くなった顔の形容は、どう表現したらいいのだろう。端正なだけにかえって不気味で、まるで蝋人形のような、その蝋人形のような立ち姿でじっと目を据えて、僕の顔を見つめていた。

 すこし間があって、大矢瑠璃子はプイと脇を向いた。
「なーんだ、つまらないの」
 僕はそれで初めて、彼女が本心からそう言ったのだと知った。
 しかしそれらの言葉が冗談でもからかいでもなく、大矢瑠璃子の本心とすれば、それはただ一打ちで僕を打ちのめす恐ろしいシグナルだった。
「あなたは私の召使であり賛美者となりなさい。私の愛の対象ではない」

 僕が怪文書やインターネットのブログの存在を知ったことで、まわりはいろいろなことを言ってくるのだが、そんな彼らや彼女らに心を開こうなどとは思わなかった。どこまで人を騙し、貶めれば気がすむのか。『AKITU高校のエロ獣』といわれ、『精神分析の結果、水谷亮は性愛偏執狂と認定された』など卑猥な造語の怪文書が校内に流れている。
 そんな自分に正当な理由、まともな好意で近づく者などいるはずがなく、興味本位でしかないと思う。
すべてに耳を塞ぎたい二日間、僕は学校に行くことが恐怖になってきた。

『勃起した性器を露出しながら大矢瑠璃子に執拗に迫った』
 人を獣に貶めるような、こんな語句の発信源は、間違いなく大矢瑠璃子本人だろう。殺そうと思った。大矢瑠璃子を殺害して自分も死のうと思った。真実、二日目には、ポケットに刃物を忍ばせて登校し、血眼(ちまなこ)の目で、大矢瑠璃子が一人になる機会を窺った。
 けれどもその日家に帰ると、五十いくつかの男が三十の女性につき纏い。最後には相手を刺し殺し、その日のうちに自分でも灯油をかぶって心中未遂を図ったという新聞記事が目に留まった。
 その瞬間、僕の脳裏に浮かんだ犯人像は、半白髪の、異性にもてそうもない男、それが愛情とも性欲ともつかない情念に駆られ、愛の欠片(かけら)も残していない相手に纏いつく醜い姿だった。いきなり冷水を浴びせられたような、何かで頭を殴られたような衝動を受け、僕はポケットの中の刃物を畳に投げ出していた。
 危ないところだった。その記事を読まなければ、自分も大矢瑠璃子を刺し、薄汚いイメージを新聞紙上に曝したのかもしれなかった。

    二
その翌朝、起きた途端に腹が渋り、階下のトイレにあたふたと直行すると、激しい下痢だった。下痢は止まらず、家族の迷惑と非難の中で、部屋とトイレを往復した。
九回目のトイレから出ようとしたとき、母親は玄関口で靴を履こうとしていた。母親がパートに出かけるような、もうこんな時間になったのかと、僕はあわてた。
「母さん、今日学校休むから、島野先生に電話してよ」
「母さんはもう出かけるわよ」
「電話はそこにあるじゃないか!」 
「お母さんも忙しいの。あんたがしなさい」
「なに言ってんだよ! 本人の欠席届ではね、学校はずる休みと判定するんだ! 父兄からの電話でないと信用しないんだよ」
「解ったわ。途中で携帯入れるから」

 まだ少し肌寒いが、季節は春に変わろうとしていた。欠席届を母親に頼んで、今日は学校を休むことが決まると、さっきまでの腹の具合が、嘘のようにぴたりと落ち着いた。僕はトイレから出ると二階に上がり、二階の窓辺に暫らく佇んで、ぼんやり東のほうに目を向けた。街路樹の欅が青芽を吹き、砂利敷きの駐車場が白く光って眩しかった。ここには去年まで空き家があったのだが、去年壊されて駐車場になった。

 心はまだ憂鬱で動揺しているが、さっきの下痢が止まったように、青い芽を吹きかけている一本の欅を眺めるうちに、憂鬱と動揺の中に、微かではあるけれど平穏な心が戻りかけていた。その僅かな心の安定の中で、大矢瑠璃子のこと、それから派生した怪文書のこと、インターネットのブログのこと、この激変した僕の生活環境を思い返そうとした。

 大矢瑠璃子のことだけが心を占めて、怪文書やインターネットブログは霞んでいる。
 自分はまだ大矢瑠璃子に恋をしている。こんな事態になっても大矢瑠璃子を憎むことはできない。
 僕の告白を聞くときの彼女の姿、急に抱きつかれたあの時の柔らかい肌の感触、僕の性器が勃起したときに、
「ふふふ」
 と笑って身を引いたあの笑顔、それらのシーンはまだ生々しく尾を曳いていて、僕の心をときめかせ、動揺させていた。
『勃起した性器を露出しながら執拗に迫った』ということも、時と場所さえ許されていれば、現実にありえたことかもしれなかった。

 僕に対して愛の欠片(かけら)もない大矢瑠璃子に、僕の心はまだ疼いている。昨日新聞に出ていた五十いくつかの男の醜い姿は、僕の姿の影法師だった。
 けれども彼と違って僕の心にはまだ辛うじて理性があった。僕は昨日ポケットに刃物を忍ばせ、大矢瑠璃子の姿を血眼(ちまなこ)の目で探したが、心の片隅では、現れないでくれという思いもあったし、怪文書やインターネットブログの存在が、大矢瑠璃子と僕の間に、とうてい修復不可能な断絶を作ってしまったということも理解していた。

 学業を放擲して誰も知らない土地に行き、何かの職に就こうかと、僕がぼんやり考え始めたのはその時だった。高校中退ではまともな職はないだろう、学歴と職業には相関関係があるらしいことは、まだ働いたこともない自分にも薄々とは解っていたが、大矢瑠璃子との愛がない学校は、もう居る所ではなくなっていた。かといって、何も知らない両親に、打ち明ける内容ではなかったし、これが他のことであったとしても、父母(ちちはは)には打ち明けなかっただろうと思う。
食べるためだけに生きているような父親と母親に、尊敬・親愛・肉親の情は、高校に入る頃から失せていた。

 父親の持論は、いい大学に行って、経済的に幸福な人生を送ることらしく、僕らが小学生までは、翔(弟)と僕を二人並べては、よく訓戒を垂れていた。父の意見に従えば、人生の目的は平穏無事な、いい生活を送ることらしかった。
 中学も前半になると、少し納得がいかなくなって、反論する僕に父親は言った。
 「桃太郎を見てごらん。金太郎を見てごらん。桃太郎は鬼が島の鬼を退治して金銀財宝を持って帰るのだし、金太郎は源氏という、当時の武将に仕えて出世してめでたしめでたしだ。つまりは裕福な生活と権力、昔から人生の目的はそこにあったのだよ」
「でも、○○は……」
「○○がどうしたい?」
そのころ○○の描いていた人気漫画に、『天才料理人Z』というのがあった。
天才料理人Zは食通や周囲の人たちを感動させ、そのまま居残れば富や権力が目の前にあるというのに、彼はそれらに背を向けて、修行のために立ち去って行く。そんな一話完結の、格好よいシリーズものだった。
 ほかの作家の描く漫画は、一目見て異次元の世界か、超人たちの活躍する自分たちには不可能の世界だった。
けれども○○という作家は、『天才料理人Z』を描き、『青空に向けて』を描いた。『青空に向けて』は、万年補欠のサッカー少年の、ひたむきな姿と最終的な成功を描いたものである。彼は編集者の言葉によれば、『現実に目を据えたリアルな作家、我らの人生の師』と絶賛されていた。
「そんなの現実でもなんでもない。なにが人生の師なものか。今時の少年少女ものなんか、若い作者が思いつきで書いている夢みたいな空想物だ。亮、お前そんなの信用しちゃいかん。桃太郎や金太郎がなぜ長い年月を広く読み継がれたかというと、そこに世界の真実が要約されているからだ。○○の作品なんて嘘物語だから、十年も残らないよ」
 「そうかな?」
 「現実の成功と言うのはね。その作品より、その作品を描いた○○本人が漫画家で生活していることだ」
「……」
「父さんはサラリーマンで、なんとか遣り繰りして困っていないというだけの生活だ。亮や翔はそうでなく、裕福な、人に羨ましがられる人生を送ってもらいたいんだ」

 その時はやり込められた形で終わり、それを境にして父親の訓戒垂れ流しは収束したのだが、心から納得したわけではなかった。
 
 「それでは生きている意味はなんなのだ」
 という思いが燻るように残っていた。
いい生活をして死んでいくのが人生なら、人が生まれて死ぬことと、溜り水に湧くボウフラの生涯とどこが違うのか。
親子四人、ただ惰性の日々を送っている自分たちもボウフラと同じではないのか。
 
 僕はその翌日に家出することにしたのだが、家出の引き金になったのは、その日の午後、学校を早退までして僕の家にやってきたクラスメートの昇が、大矢瑠璃子に恋人がいると告げたのが原因だった。
 昇は、大矢瑠璃子にはオオウチ・マナブという恋人がいて、怪文書もブログも、その恋人の仕業だと断定した。
 「オオウチ・マナブというのはどんな奴だ」
 「俺達にいっこ先輩らしいよ。SHOCHI高校スポーツ科に在学している……。
そこのサッカーリーグ、ユースに加盟して、J一を目指しているらしい。
J一に入ったら大矢瑠璃子と結婚し、彼女を世界一幸福な花嫁にすると言ったらしい。
大矢瑠璃子と恋人関係になっているのが自慢らしいよ」
  「そのオオウチ・マナブが怪文書やブログの真犯人だという確証は?」
  「水谷君、考えてもみなよ。大矢瑠璃子が君に告白されたことをまず真っ先に喋る相手は恋人のオオウチ・マナブ以外に考えられないじゃないか。それに彼には恋人として、君に復讐する十分な理由がある。だから僕は……」
  自分にとっての最大の関心事はすべての人の関心事であると思うのは、世間がよく抱く錯覚だが、昇もこの錯覚に陥っているようだった。勢いよく動き続ける唇が、それをはっきりと示していた。
しかし僕は、昇が現在目の前で、怪文書やブログを造ったと雄弁に喋り続けているオオウチ・マナブという大矢瑠璃子の恋人を、知りたくはなかったのだ。
僕は昇の唇の動きをぼんやりと見つめながら、全身の力が抜けていくのを感じていた。
  わざわざ学校を早退してまで僕に伝えにきた彼の好意は、結果的に完璧に僕を打ちのめし、絶望の淵に突き落としたのだった。
  昇の、まだ動き続ける唇を見つめながら、
  『解っていたよ、解っていたことなんだよ……』
  と僕は頭の中で呟いた。
☆     ☆      ☆     ☆
告白を聞いた大矢瑠璃子は、微笑みながら僕を抱擁した。彼女の甘い息使いと、その柔らかい太腿の付け根辺りの感触に僕の肉体はうろたえた。
大矢瑠璃子は、僕の勃起を確かめるとその身を離し、
「ふふふ」
と笑ったが、それは男性の身体機能を体験した女性のしぐさで、僕だけにした初めての行為と思うのは、童貞の僕でも信じることはできなかった。
☆     ☆      ☆     ☆

しかし、僕はそう思っていながら、昇が『オオウチ・マナブ』という恋人の実名を出したとき、絶望的な衝撃を受けた。
人は命にかかわる体験にあうと記憶喪失になるというが、浅ましいことだが、僕の心理もその状態に近かったのかもしれない。
恋人がいるかもしれないという思念を、無意識の力で封じ込め、心の働きを操作して、努めて考えないようにしていたのかもしれなかった。
     
       三
僕は結局その翌日に家出した。そうして数奇な生活を体験したのだ。
その日、僕は昨日立てた家出計画を朝から実行に移した。もうとっくに治っているのに、下痢を装って部屋とトイレを再三往復して昨日のように、いや、昨日よりももっとひどく三人の家族に迷惑をかけた。
そうしておいて、
「まだ、お腹が痛い、今日は昨日より容体が悪い。病院に行くから今日も学校を休む」
と嘘をついて母親に連絡させた。
これもまた昨日と同じく、母親がパートに出掛けようと玄関口に向かう時間を見計らい、
「母さん、いい機会だから病院の帰りに本屋さんに立ち寄って参考書を買いたいんだ。
病院の診察料も、いくらか解らないだろう? 一、二万ですむとは思うけど不安だから、母さんの銀行カードを貸してよ」
と言った。母親は迫っている出勤の時間と、僕の容態の心配とで心が乱れていて、僕の声が普段よりいくらか掠れ、震えさえ帯びているのに気づかなかったようだ。
「いいわよ」
とキャッシュカードを渡しながら、
「暗証番号はこれね。引き出し方が解らなかったら銀行の人に聞くのよ。確か三回失敗したらカードが使えなくなるって聞いたわよ」
と口早に説明すると慌しく出掛けて行った。

こんな経験は初めてだったが、僕の意識は混濁しているのに、肉体かってに行動を始めだした。自分で自分を、まるで夢遊病者みたいだと、ぼんやり意識しているもう一人の自分がいて、またそれらの全体が夢を見ているようだった。
なんということだ。こんなに簡単に計画が進んでいいのだろうか。このままでは、僕はAKITU校を去っていく。大矢瑠璃子を始め級友たちや、生まれたときから関ってきた家族と無縁になる。これでいいのだろうか? と意識は躊躇して、この行動に否定的なのに、手足はてきぱきと、目的もない土地に向かって、大き目のショルダーバッグを肩に掛けてキャッシュカードをポケットに突っ込むと、家を出ようと立ち上がっていた。

 漠然と、熊本市か福岡市に行こうと思っていた。
 熊本市は中学の修学旅行のとき、自由行動のスケジュールが組まれた街だった。観光バスから降り立つと、そこには昼間から照明の輝く商店街があり、たくさんの人たちが歩きまわっていた。そんな思い出から熊本を思い浮かべたのだから、心はまるで学生の旅行気分だった。福岡市の場合派は九州の中枢都市だから、働き口がみつかるだろうと思ったからだった。
 家出の候補地というのも何か変だが、熊本市と福岡市という二つ都市が心の中で決定していた。

 自転車でM駅に行き、駅前の銀行に立ち寄って、自動引き出しコーナーで五万円引き出してみると、カードにはまだ十万少しの残高があった。これなら当分なんとかなるだろうと心強く、切符を買ってから売店に戻り、タバコというものを初めて買ってみた。
目的の電車が着くまでにはまだ三十分以上あったので、プラットフォームの隅っこに立って、タバコに火をつけようとすると、人相の悪い中年男がさっきから時折こちらを盗み見るのが気になっていたが、僕の動作を見咎めたのか、こちらに近づいて来そうなそぶりを見せた。
慌ててタバコを灰皿に投げ捨てると、さりげなくその場を離れ、階段口のほうに足早に移動した。後を振り返ったが、後を追ってくるようではなかった。
喫煙を見咎められたということは、一見して未成年と解る服装をしているということだ。熊本のあの商店街で、買い揃えて着替えようと思った。

 ショルダーバッグには学校の教科書も入っていたのだから、世間知らずの高校生の、中途半端な気持ちからの家出、気ままなアルバイト暮らしという未来図が、心の底に描かれていたのかもしれないが、そのときの胸のうちには喪失感が拡がって、しかしその片隅には爽快感、あるいは解放感といったものも混在していた。
 胸を覆い塞ぐ喪失感というのは、大矢瑠璃子と物理的にも離れて行くことであり、つまりこの家出とは失恋旅行のようでもあった。片方の爽快感というのは、学校・家庭・M−市、今まで自分を閉じ込めてきた環境から解き放たれる解放感のようなものだった。
喪失感と爽快感、けれどももう自分には、学校に居場所はなくなっていた。ショルダーバッグに学校の教科書を入れたのは、後で思うと学校に未練があったのだろう。大矢瑠璃子との関係がこじれるまでは、家庭にも学校にも閉塞感、そういった不満は確かにあったけれど、だからといって二つの場所を、捨て去ってしまおうとは思っていなかった。
僕のAKITU校での成績は、優秀とはいえないまでも下位ではなかったし、遅刻は時々したけれど無断欠席もなく、総合的に見て問題のない大人しい生徒だった。問題のない大人しい生徒というのは、自己保存だけが肥大した結果、思ったことの半分も行動しない、つまりは平凡な人間ということだ。自己保存のためにまわりに気を使うだけで生きていく、性格の弱い人間ということである。そン亜人間が等しくそうであるように、無事に卒業して大学に行くつもりだった。

 しかし僕は大矢瑠璃子のことがあってから少し変わったような気がする。大矢瑠璃子とのことがあって、まだ怪文書やブログの存在を知らないころだったから、告白して三日も経っていなかった時期だと思う。その日は朝から激しい雨で、普段の自転車通学でなくバスで学校に行ったのだが、午後六時過ぎに補習授業が終わった頃には、バス停辺りは薄暗くなっていた。その暗さが僕を大胆にしたのかも知れなかった。バスはそれほど混んでいなかったのに、中程の座席に一人で坐っている、会社帰りと思われる若い女性の隣に腰掛けたのだった。その女性は男子高校生がいきなり隣に腰掛けてきて驚いたはずだが、清潔そうな顔を前に向けたまま、さり気なさを装っていた。
小柄で、紙折人形のような、目立たない印象だった。高校卒業後地元企業に、OLとして勤めているのだから、もちろん女性は僕より年上だった。
 高校生の僕にも、現在女性に恋人はいないと確信があった。僕より二つか三つ年上のはずなのに、男性に縁のない、固い蕾みのような清楚さあった。
 二人の間に会話のあるはずはなかった。しかし数分後、僕はバスの振動に揺れたふりをして、自分の膝を二秒か三秒、女性の太腿に押付けたのだった。
清楚さだけが際立つ、固い蕾みのはずの女性の太腿は意外に柔らかくて温かかった。想像を超えた神秘の時間が過ぎて、さり気なく膝を離したが、今度は女性のほうから、その太腿を、僕の膝にそっと押付けて、その後しばらく僕らはお互いの膝を押し合っていた。
 僕のほうが先に降りることになり、立ち上がったとき、
「降りるの?」
 と女性が僕の顔を見上げた。
 もしも僕がそこで降りないで女性と一緒に降りていたらどうなっていたのだろう。僕という自己保存だけが肥大した平凡人は、高校生だからとそこで降りたのだった。
 自分は大矢瑠璃子が欲しいのだろうか、それとも女性が欲しいのか。恋が欲しいのかそれとも性欲か、バスを降りて夜道を歩きながら、不意に涙が溢れてきた。

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