女がライオンと出会う話
男は目覚めると、スローモーションさながら、妙にゆっくり起き上がり、洗面所へと、さまよい、ふとよろけて、扉に体を預ける形となった。しかし、鏡は割れていて、破片が飛び散り、足に突き刺さり、血が流れるが、混乱のメタファーさながら、残った鏡のピースに映し出された、たくさんの男の表情は、混乱というよりも、恐怖、自分と他人の境を垣間見た、恐怖を備えていた。いつしか鳴り響く、突き刺すような女の声にも反応せず、男は鏡に近づき、そこでもう片方の足にも破片が刺さるが、お構いなしに、相変わらず血は流れ、残った鏡の比較的大きなピースを、剥ぎ取る。鏡像と絡まりあった記憶との関係を見出そうとしたが、かえって複雑さを極め、むしろ剥ぎ取った鏡の後に残された、ごつごつとした岩のような感触に興味を奪われた。女の声はますます音節にまとまり、意味のない記号と化していた。
男は、血の足跡を残していることにも気づかず、部屋に戻ると、ようやく女の姿を確認した時、女は下着姿で、コマ送りさながら、妙にすばしっこい動きで、部屋中を意味もなく歩き回って、いらいらさせた。「あなたが」彼女の言葉がようやく形になり、「あなたが、急に暴れだして、あんな重たいものを投げるから、当然よ」。女はすでにズボンをはき終え、いつの間にか地味なクリーム色のシャツも着ていて、ちょうど上着を探しているところだった。男は、彼女の上着が私の背後の、椅子に掛けてあることを知りながら、距離を詰めて、「重いものってなんだろう。そういえばあそこにおいてあったトロフィーが見当たらないな。ところで君は誰だい?」女は男とすれ違い、瞬間、甘く、誘惑的な、見たこともない花のにおいを振り巻きながら、男はただただ立ちすくみ、女は、椅子に掛けてある自分の上着を羽織った。その動きは、流れるようにスムーズで、男は、彼女が帰ってしまうことを悟り、現実との唯一のつながりを失うことに、絶望し、困惑した。振り向きざまに、何とか、「少し待ってくれないか、電話を掛けなければいけないんだ。」と、精一杯に、女は肩をすくめて、ちょっと笑ったように見えたが、本当はあきれただけで、ようやく静止した彼女の姿は、雑で、美しく、男をとりこにした。心ここにあらず、探した携帯電話は、ベッドの上ですぐ発見されたが、呼び出し音から先の展開は見込めず、男をいらいらさせ、女をいらいらさせ、それがさらに男をあせりの渦へと引き込むのだった。「ねえ、いったいどこに電話してるの?」女のいらだった、カナリアのような美しい声は、男の耳に届いているはずだったが、まだそれには答えず、次のコールとその次のコールを待って、思いもよらず、壁に投げつけた。携帯電話は3つか4つの部品に分かれたが「さあ、わからない・・・。君は美穂って言う女を知っているかい?」と、先ほどの問いに答える始末だった。女は無反応に事の次第を見守り続けたが、美穂という言葉が出た瞬間に、無造作な立ち姿を崩すと、男に近づき、一瞬の平手は、切り裂いた効果音を放ち、男がよろめきから立ち直る前に、この部屋から彼女の姿は永遠になかった。男は急いで、初めて急いで、窓に駆け寄ると、小さくなった彼女に、力いっぱい叫んだ。「足にガラスが刺さって痛いんだ!!」
足の治療を終えた男は、スーツに着替え、お気に入りの山高帽をかぶると、まがまがしく、誘惑的なにおいのする、この部屋を後にした。街は、どの店もシャッターを下ろしていて、一軒一軒しらみつぶしに、男が、シャッターをたたいて大きな音を響かせたが、ついには誰も出てこなかった。ある花屋なんかは、まだ昼だというのに、煌々と明かりがともっていて、音楽がかすかに聞こえるほどに、人の気配を感じたが、ここもまた、反応はなかった。歩き疲れ、足がまた痛み始めたころ、道の行き止まりの動物園は、ひっそりと、呆然とし、絵に描いた動物たちは、いつまでも笑っているだけで、魅力的だった。中に入ろうとしたが、切符売り場はしまっており、しかしゲートは開いているが、切符を確認する人は見えなかった。ゲートの正面には古びた紙が風になびきながら、書いてある言葉は、「ライオンとかシロクマとか、そういう動物が逃げました。よって閉鎖にいたる次第です。園長」男の疲れは眠たさに移行し、足はもう限界で、つま先立ちするしかなかったので、注意書きのビラを、勢いよく、剥ぎ取って、なお残る、テープと紙の切れ端に気をそがれながら、参ったという表情で、丸めて、捨てて、無人のゲートをくぐった。
男がライオンにあったのは、ゴリラのおりの前だった。しかし、男はライオンを見たことがないので、それをトラか、もしくは遠いジャングルに住むたぐいのクマだと思い、一瞥を向けるだけですっかり軽視していた。眠るところを探して、レンガ造りの、真っ赤な建物を見つけたが、そこはアシカの水槽の正面でゴリラのおりの隣にあったので、そのころには、すっかりライオンとの距離は縮まり、残り、数メートルか数センチというところでライオンは猛スピードで仕掛けた。ライオンを軽視していた彼はゆっくりとした動作で建物に入ると、間一髪のところで扉を閉めたが、ライオンは派手な音を立てて扉に体当たりして、しかし扉には特に鍵も掛けず、無防備にもぐっすり眠った。
夢のない、無味乾燥な眠りの後、ライオンが本当に恐ろしいものだと知ったときは、久々に知恵をつけたし、左手を失うだけの価値を持つ、知的興奮を感じた、3頭のライオンが、クリーム色のシャツを着た、女性を取り囲んでいた。さっきの、止まった姿が魅力的なあの女は、すでに上着をライオンに取られていて、男は足早に女性に近づき、再開の握手を求めたが、彼女の視点は、男の後ろですっかり像を結び、追い詰められた女の表情をしていて、しかし意に介さず男は「君を探していたんだよ。」といい終わるかどうかのうちに、悪しきライオンに左腕をかまれた。引きずられる男は、なお女性のほうを向き、何てことないといった表情で、笑うと「まだ足が痛むんだ。少し寝たけど治らない。」女はそんなことも聞かずに、逃げることもせず、ただ、美しい立像を保っている。男は、なお反応を示さない女に不快感を覚えて、ポケットから出した鏡の、大きな破片を、左手を懸命に噛み続けているライオンに突き立てた。ついには5度目の攻撃で、ライオンは息絶えたが、三回か四回は続けざまに攻撃を浴びせ、右手が真っ赤になってから、もう一度女に握手を求め、温和な笑顔を作った。いつの間にか、ほかの2頭はいなくなったけれど、帰り際にちらちら見つけて、後を追っているようだった。途中、トラにあっただけで、サイとか、シロクマとかにはあわずに、ビラの信憑性は半々だなと疑った。女は知らないうちに消えてしまって、また一人になったので、部屋に帰ることにした。
美穂はとびきりの料理を、いとも簡単に、当然のように食卓に並べたので、かえっておいしいとは言わずに、今日の出来事や、昨日の出来事、僕たちが出会ったときのこと、ばかげているけど、空を飛ぶ魚の話、クリーム色の何かについて、話をそらしながら、しかし最後にはしゃべることがなくなって、おいしい!!と言わざるを得なかった。鏡のことについて、とやかく言われるかと、身構えたが、無言で破片を片付ける後姿は、色っぽく、ついつい意に反して、饒舌になった。「ところで」男は急に切り出して、美穂は動きを止めたが、やはり動いている姿のほうが美しいと感じて、何秒かの沈黙後、再びゆっくり動き出したことを確認して「君は誰だい?」。よくないことが起こった後のよくない空気が辺りを包み、「あなたの大事なトロフィーでしょ。ばらばらになっちゃったわ。」美穂は振りかえると、何事もなかったように「もうおかわりはいらないの?」と、そのころには、男はどぎまぎして、背後にある椅子に掛けてある、上着の存在を隠すことに、必死だった。上着は頭の中をぐるぐる回って、次第に肥大し、鏡や、トロフィーや、おいしい料理や、美穂のことなんか、次第に押しつぶされたように、見失った。女が取りに戻ってくるのではないか、と色めき立ったが、やはりノックの音とともに、誰かの訪問が開始した。男は足早に、扉に向かって、途中、上着を持っていくことを忘れずに、客人を迎えるべく、ドアを開け続けた。
ライオンは真っ赤に染まった頭部を懸命にもたげながら、ガラスの破片がまだ残っていて、上着を持った男は冗談めいて、しかし追い返すわけも行かずに、悠々と座るこの、猫科動物を、部屋に入れた。長い長い話し合いの後、男は追い詰められていることを知った。裁判にいいイメージはなく、ただ、5針か、15針かの傷と、左目か右目の失明をしただけで、そんなことになるなんて、想像もできなかったし、何よりライオンの主張は、筋が通っていて、男の言うことはついつい言い訳がましくなってしまい、つじつまあわせに、上着ばかりこねくり回す、意味のなさだった。ライオンが帰った後のすがすがしさといったら、これから訪れるわずらわしい手続きや、裁判に関するごたごたをわすれて、あの匂い、ライオンの独特な、甘いにおい、誘惑的な、見たこともない花のにおい。途方もない疲労感に襲われて、男は眠りにつくことに決めて、ようやくスーツの解体に取り掛かった。まず手始めにこの忌々しい山高帽から。
ついに私は、美穂と出会うことになるのだったが、その場所がまた奇妙で、私の服装もまたおかしくて、言葉にすると面白い場面になってしまうので、真剣なこの雰囲気を崩してしまう恐れがあるために、あえて言及しないでおこうと考えている。とにかく当面の問題は、美穂があの上着を着ていること。あの上着は美穂のだったのか!!美穂は終始一言もしゃべらず、私は濃すぎるほど濃い、緑色をした制服を、きちんと着込んだ監視役に、たあいもない冗談を一人でぶつけるだけだった。私の時間はゆっくりと、しかし確実に進んでおり、いつまでも下を向いた美穂に、苛立ちと、哀れみといった相反する感情がゆっくりと私を混乱させた。そうこうしているうちに裁判は幕を閉じた。
男は、ライオンと、上着を羽織った美穂と、甘いかおりの女と、サイや、シロクマや、イノシシや、怪我のしていない2頭のライオンと、呼んでも出てこなかった、花屋の主人と、その娘、幼さを残したその顔は、ついに色っぽい目をして、男を誘惑するように、舌なめずりして、一枚、また一枚と着ているものを脱いでいくのだが、なかなかの重ね着で、見ていられない、そして、切符売り場の三人娘は、姉妹のように仲がいいが、裏ではだれだれが気に入らないだの、私が一番だの、言いたい放題言うので、言うことをやめようと言い合った、さらには、裁判官と、緑色の制服の男が、殴り合いのけんかをして、あの猫は私のだと言ったり、知らない女性を家に入れるなんて、と罵り合い、みんな、まるで静寂のような騒がしさで、右を見ようか、左を見ようか、後ろを見ようか迷うほどに、ふと、静かになったと思ったら、またざわめきあって、うねりは頂点に達し、拍手喝さいの後に、花屋の娘と目が会うことを避けながら横を通り抜け、三人娘はようやく喧嘩を始め、裁判官と監視役が手を取り合って抱擁し、ライオンたちは急に間違えたという表情でそわそわ、落ち着きをなくし、美穂は涙を流しながら微笑んで、女は姿を消した。すっと、一歩、また一歩と、足を踏み出すと、一気に聞こえるものはなくなって、男の足音は、奇妙なタイミングで鳴り響き、やけに目立ち、頂上には、イノシシがいて、始めましてと挨拶をしてから、振り返ると、おかしなことに、みな、神妙な面持ちで、この私を見上げ、また涙を流すものまで見受けられた。私は、さらに一歩踏み出して、ぎりぎりまで来ると、イノシシのような肩幅の広い男に「ありがとう」というと、白いロープを手にとり、首を通して、ごつごつとしたロープの感触をのどに感じながら、そのときを待った。しかしそのときは訪れず、おそらく自分で行かなければならないのだと悟った。
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