光芒
一
松やブナ、漆の木、照葉樹の立ち並ぶ山道であった。九郎と久蔵は、島津家の追っ手に慄きながら、その道筋を、時には小走りになるほど急いでいた。天心に懸かった月が冷々と、秋の夜の樹海がうねるようだった。
九郎の母は、相州島津運久の側室だったが、永正八(一五一一)年、運久の正妻が突然亡くなると、父、運久は、伊作家島津善久の未亡人、常盤と再婚することにした。常盤は、世評に高い美貌の人である。亡くなった正妻には子どもがなかったので、連れ子の菊三郎を、跡継ぎにするというのが、結婚の条件らしかった。しかし、複数の側室には、男の子が、二人いた。そのうちの一人が、側室お香の方の一子、島津九郎である。
常盤の子、菊三郎が、跡目を継ぐというので、側室の子どもたちの立場は微妙なことになったのだが、二人とも、出家するということに話がまとまって、九郎は京の高野山、金剛峰寺に送られることに決まった。
もう一人の側室の子音丸は、比叡山、延暦寺に行くのである。
その、三日後に出立の夜、九郎が部屋で寝ていると、
「若さま、若さま、これ、九郎どの」
とあたりをはばかる声がする。
「うう……」
「これ、九郎どの、寝ている場合ではありません。起きて、支度しなさい。逃げるんです。」
「うう、なに? 久蔵、何で逃げるの? それに、逃げるって、どこへ?」
「どこへというわけではないが、とにかくここを出るんです」
「だって、金剛峰寺へ行くのは、しあさってでしょう?」
「なにを、のんきなことを言ってるんですか」
久蔵は舌打ちをした。
「金剛峰寺へ送られる途中で、殺されるんですよ。そんなこと、分かりきったことではないですか」
「ええっ!」
「これ、声が大きい。早く、早く支度を」
「久蔵、父上が、わたしを殺すのですか?」
道々、久蔵がこんな話をした。殿は以前から常盤未亡人へ執着し求婚していた、常盤が、善久には正妻がいるではないかと断ると、正妻をだまして誘い出し、焼き殺したというのである。
九郎には、とても信じられない話だったが、
「ただの噂ではないようです」
と久蔵は言った。
「九郎どのは、まだ十歳で、お屋敷育ち。世間の、どろどろしたことに疎いから、しかたがないが、奥方焼殺は、殿と常葉が、くるになってやったと、せっ者は思います」
と久蔵は続けた。
「久蔵、では、母上は、どうなるのでしょう?」
「お香さまは、このことを、知っておられます。九郎だけは、逃がすようにと、たのまれたのです。それで、機会をうかがっていたのです。お香さまは、一緒に行きたいが、足手まといになるから行かないといわれました。久蔵が思うに、今ごろ、自害なさっておられるはずです」
「ええっ!」
「これ、若さま、気をしっかり持ちなさい。奥さまの死を、むだにしてはなりません、あなたは、生きのびるのです」
逃げているのは、正確には二人ではない。二人と、二匹である。飼い犬の捨と、猫のコチが、一緒になって走っていた。そっと屋敷を抜け出した二人が、息を殺しながら山道までたどりつき、さて辺りを見まわすと、なんのことはない、捨とコチが、足もとに、うずくまっていた。九郎は、一人っ子で、側室の子として育ち、あまり外に出なかったので、犬と猫が遊び相手だった。捨とコチにしてみれば、その九郎が、夜中に家を出ようとしている。いったいなにごとならんと驚いて、あとを追ってきたのである。
ずいぶんと屋敷から遠くなり、あと二、三里で国境だろうと思ったそのとき、久蔵が、
「げっ!」
と叫んで立ち止まった。と同時に捨が、うなり声を上げた。前方に人がいる。いや、前方だけではない、後ろにも、横にも、人影が立ち並んで、いつのまにか、四方を囲まれているのだった。さきほどから、捨が、しきりに立ち止まるようにしたが、それが、これだったのに違いない。
夜盗か? 山賊か? 久蔵は思わず、懐の路銀を抑えた。
「こんなことだろうと思った」
正面から、野太い声がした。やや! 夜盗や山賊の物盗りではない、まさか、追っ手? それも、待ち伏せ? 久蔵の歯は、カチカチと鳴った。
それでも、
「何者か!」
と気丈に誰何しながら、九郎を、かばうようにした。
それに向かって、正面の声が答えた。
「財部美樹である」
「タカラベ……、ミキ……」
それは、誰あろう、九郎を金剛峰寺に送り届ける役目の、財部隊の隊長の名前だった。名を聞いただけで敵は震えだす、島津武闘派の旗頭なのだ。
この財部美樹ほど、しまつにおえない男はいない、と言われた。
戦人は、何のために、命を懸けて戦うのか? それは、名誉のためであり、それにともなう一族の、立身出世のためであるはずだ。しかし、財部美樹は、そうではない。報奨金も、地位も、きれいさっぱり部下に分け与え、彼自身はいつまでも、一部隊長のままでいて、命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ。と嘯いている。
島津運久侯、じきじきのお声がかりで、まだ独身の彼に嫁を取らそうとしたのだが、
「いらん!」
と一言のもとにはねつけて、あやうく切腹になりかねるところだった。そんな偏屈な男だと久蔵は聞いている。
彼は戦闘に刀や槍は使わない。六尺棒を、それも他人ではやっと持てるか持てないかという鉄製の六尺棒を、軽々と振り回して、あたりかまわず殴り殺すのである。返り血を浴びながら、血煙で曇る戦場を、狼のように跳びはねて、ときおり、にゃり、と笑うその顔は、まるで人ではない、赤鬼のようだった。
この男は何のために戦うのか、それは、ただの殺人鬼ではないか?
しまった! もっとも無慈悲な男に、見つかってしまった。
しまった! しまった! と久蔵は思った。
「島田久蔵どの、しゃれたことをされるものかな」
美樹は、謡うように、楽しそうに言った。暗闇の中で財部美樹の顔が微かに見える。それは、笑っているようだった。
「財部どの」
と久蔵は、刀を抜きながら、
「あなたも、九郎どのは、かねてから見知っておいでであろう。このいたいけない和子に、なんの罪があるか。今度のことは、恐れながら、島津運久侯、常盤どのに無法がある。島田久蔵は、そう思う」
と顔面蒼白の、声を振り絞った。
「死ぬのはかまわない。しかし、九郎どのがかわいそうだ」
「そうだ」
と美樹が、答えた。打てば響くような、即答だった。
「へ?」
「久蔵どの、せっ者は、九郎どのを連れ戻そうとして、ここにいるのではない。このまま金剛峰寺へお届けしようと待っていたのだ」
「なんだと」
「心配するな。殺しはしない。いや、殺させはしない」
「おくる途中で、殺すように、命令が出ているのではないのか?」
「出ている」
「それなら……」
「九郎どのを見つけたが、このまま財部美樹が責任を持って、金剛峰寺へ無事にお連れすると、これからお館に使いを出す」
「……?」
「そして返事を待つ」
「返事を待つ?」
「殺せといわれても無視する。どういう返事であろうとも、九郎どのは五体満足で、財部美樹が金剛峰寺へ送り届けると得心されたい」
「なんだって!」
「さらに追っ手がかかったら、戦うまでよ」
「そんなことが……」
お前さん、できるのかい? と言おうとして久蔵はつばを飲み込んだ。
さらに美樹が、驚くようなことを言ったからである。
「お香さまも無事だ。ここにおられる」
「ええっ!」
「たぶん、無事にはすまないだろうと思って、お連れした。九郎どの、母上も、ここにおられるのだよ」
おられるのだよ。と、この荒武者の、似ても似つかない優しい言葉は、なぜか、おかしいのだが、だれも笑わない、一同、シンとしている。
『お香さまも連れてきているのなら、これは、ほんものかもしれない』
久蔵は、せわしく思いをめぐらせながら、刀を納め、九郎の肩を抱いた。
この美樹が、母子を一緒に連れ出して、まとめて殺戮する、そんな手のこんだ面倒はしないだろう、信じて、よいのかもしれない。
久蔵は、震える九郎をなだめるように、
「九郎どの、母上もいらっしゃるそうですよ」
とささやいたが、その声と、ほとんど同時に、
「九郎」
と暗闇の奥から、優しい声がして、
「母上!」
と九郎は、久蔵の手を振りほどくように、そちらへ向かって走り出し、母子は相寄って、ひしと抱き合った。
「なんとも……」
ありがとう、と言おうとして、久蔵が美樹の顔を見ると、意外なことに、母子の姿を見守るその頬に光るものを見て、はっとした。
「この殺人鬼にも、人の心があったのか」
ほっとして、やっと気が緩んだ。
そうして、
「もしかして、この財部美樹という男、お香さまを好きなのではないか?」
と思ったりした。
二
こんなことを、本人に直接言うと、それこそ殴り殺されかねないが、財部美樹にも、子供時代というものがあった。
彼は、薩摩の国の、財部という山村に生まれ、その幼名を常吉といった。猫の額ほどの田畑にしがみつく百姓一家の次男坊だった。
財部美樹こと常吉は、幼いころ、近くに住む一つ年下の太吉と大の仲良しだった。まだ鼻たれの時分から、毎日、太吉の家へ遊びに行った。太吉のほうも、常吉が来るのを心待ちに待っているふうだった。
ほかの子たちと遊びもしないで、太吉だけと遊ぶ。あまり毎日のことなので、『常やんは、太吉と遊ぶために行くんじゃないんだ、じつは、お雪が目当てなんだと』と言うものもあって、いつか、それが村の子供たちの、ひそひそ話しになっていたようだった。
噂は男の子たちではなく、男女の機微にさとい、女の子の誰かが言い出したことだったろう。九つそこらの常吉には、そんな気持はなかったし、悪い噂や陰口を当人に知らせる人もいないだろうから、何も知らないまま、常吉は太吉の家へ、相変わらず遊びにでかけていた。
常吉が行くと妹のお雪も、ニコニコしながら一緒に出てきて、太吉と二人で遊ぶというより、お雪を入れた三人で遊ぶのだから、たしかに、お雪目当てのように見えても不思議ではない。常吉と太吉が相撲を取ったり、お侍のまねをして、棒切れを、夢中になって振り回す、そのそばで、お雪は、あたりの野花を摘んだり、葉っぱや土くれで人形をつくったりして、一人で遊んだ。
風の強い春の朝がた、常吉が桜吹雪の土手道を太吉のところへ、一日中遊べるのも、今日で最後になるかもしれないから、あれもして遊ぼう、これもして遊ぼうと、胸をわくわくさせながら、小走りに出かけていくと、太吉はいなくて、いつものようにニコニコと、お雪が出てきた。
「太吉あん(兄)は、いないよ。弥五どんの日じゃがな。常やんも、去年、すませたんではないけ?」
と言ったのだが、言われてみれば、今日は弥五どんの日だった。いや、弥五どんの日と知らなかったわけではない。
「常、次の弥五どんが来るまでは、田んぼの手伝いはせんでいいから、ええか。次の弥五どんかぎりだぞ」
と親に言われていて、それが、この日だったのだ。だから、太吉と朝から一日遊べるのも今日が最後だと思いながら、やってきたのである。
弥五どんの日というのは、財部地方で、男子十二才の春に伝わる成人式みたいなもので、そろそろ一人前だ、家の手伝いをして働かなくてはいけないぞ、という意味をこめて、朝から本町のお宮参りに出かける儀式の日だった。太吉はそれに出かけたという。
常吉は、『おら、馬鹿じゃないけ』と自分で自分にあきれてしまった。考えてみれば、太吉は自分より一つ下だから、今日が太吉の弥五どん日なのは当たり前のことである。それなのに、まさか太吉がそれにあたるとは、思っていなかったのである。
口を利いたことも滅多になかったので、常吉は、お雪の声が、意外と優しいのに初めて気がついた。そうして、あらためて見ると、お雪の姿かたち、そのしぐさは、とても愛らしいのだった。けれども、そのときはただそれだけで、
「ああ、そうかあ、太吉も十二になったのかあ、おれも、遊べるのは今日までだ。明日から、お父うやお母あと、一緒に田んぼに出なければいかん、お雪ぼう、朝から行くんだぞ。一日中田んぼで働くんだぞ」
と威張ってみせて、
「じゃあ、しかたがない、太吉が帰るまで、お雪ぼうと遊ぼうかあ」
といつもの山へ二人で出かけた。常吉が持ってきた芋を分けて食べて、昼時も帰らないでいたが、太吉は、とうとう一日現れなかった。太吉のお父うは計算の細かい男だから、弥五どんも終わったからというので、さっそく田んぼへ連れて行って働かせているのかもしれない。
お雪と二人で過ごした、その日は、春なのに、油をたらしたような陽が、ゆらゆらとゆれて、夏と間違えるように暑かった記憶がある。
遊ぶといっても、まさかお雪と相撲をとったり、チャンバラごっこをしたわけがない。二人並んで、切り株に腰をかけて、あたりを見まわしながら、ただ話をしたように思うのだが、話の内容はあまり覚えていない。平凡な会話だったのだろう。ただ、十になった、そのときのお雪の笑顔と、白いきれいな歯並びは、三十すこしを過ぎた今となっても、常吉(財部美樹)には、忘れようにも、忘れられない。
今でも、鮮やかによみがえる。
あのとき、お雪は二つのことを言った。
「常やん、雲が動いてる」
常やんというのは、常吉のことである。太吉がそう呼ぶから、お雪も常吉をそう呼んだのである。
「あたいが、歩くと、雲も一緒になって、ついてくる」
その言葉に空を見上げると、なるほど、そのとおりだった。常吉が歩くと雲も動き、立ち止まると、雲も動きを、止めるのだった。
「常やん、野花が、いっぱい咲いている。小鳥が、たくさん鳴いている」
たしかに春は花の盛りで、山は鳥たちの楽園だった。
「常やん、見ているのも、聴いているのも、常やんとあたい、たった二人なのにね」
お雪が、はんなりと笑った。
そんなふうに、お雪は、おとなしくて、いつもニコニコと、心の優しいだけでなく、賢い子だった。小さいころから、人を人とも思わない腕白傾向のあった常吉も、お雪とこうして二人きりで話していると、その言葉の一つ一つに、固い心が溶かされていくようだった。
やがて、日が西へ沈もうとして、あたりは薄暗く、もう帰らなければならない時間になった。
「あしたからも、昼過ぎ、仕事が終わってからは、遊んでいいそうやから」
と常吉は言った。
「おれ、明日からも、来れたら、また遊びに来るから」
とも言った。心が残り、立ち去りたくなかった。
そして、続けた。
「これ、記念(かたみ)に……」
常吉は、今日のために用意してきた二個の小石を、懐から取り出して、お雪の手にそっと握らせた。白くて丸い石二つ、きれいな小石だった。もともと太吉にわたそうと思って、川原で選んで拾ったものだった。
「一つが、おまえで、一つが、おらだ。これまで遊んだ記念にわたすから、いいか、なくすんじゃなかと」
と口上まで考えていたのだった。それを、とっさに変更した。常吉は、そのとき、なぜかそうせずにいられない気持ちになっていた。
「一つが、太吉ので、一つが、お雪ぼうのだ。これまで遊んだ記念だから、なくすんじゃなかと」
三
けれども、それから常吉は、一家の働き手として、父と兄に混じって一日中働いた。朝から日が暮れるまで、手伝いに明け暮れる毎日で、太吉とお雪に、逢うことは、めったになくなった。
常吉は、年が過ぎるにつれて、並外れた体力と不敵な心で兄をしのいだ。
十九のときは、仕事を終えた後、たった一人で、三反歩の畑を開墾するという離れ業をやってのけ、村の評判になった。
「常やん、おら、あんたを見習えと、お父うに怒鳴られっぱなしや」
と道で偶然であった太吉に、こぼされた。
「この根性なし、根性なしと、責められっぱなしさあ」
太吉兄妹は、母親似の優しい気質で、いや、太吉は男だから、当時の常識からいえば、やわやわの役立たずという感覚だろう、気性の激しい太吉の父親は、そんな太吉が腹立たしかったようだ。
分家、嫁とりの話が持ち上がったのは、そのころである。
「なりゆきから言ったら、嫁っこには、お雪ぼうだが、お雪ぼうはなあ、ちいっと、べっぴん過ぎるからなあ」
と、お父うとお母あが、ひそひそ話をしていたが常吉は、知らんふりをしていた。自分の嫁にお雪など、考えられもしなかった。
それが一変したのは、ひそひそ話の数日後、秋祭りの二日前だった。
夕食の座で、
「常の嫁が、お雪ぼうに決まったど」
とお父うに、言われた。
「よかったな、常吉」
お母あの口元がほころび、兄が、兄嫁が、口々にそう言ったが、常吉は黙っていたという。
あのお雪が、おらの嫁に、そんなことあるはずがないと思ったのだろうか。
なにがなにか分からない。耳奥がじんじん鳴って、遠くで声がする。
「お父う、肝心のお雪ぼうは、承知なのかい?」
「おうさあ、仲人の伊作さあの話じゃあ、お雪ぼうは、あたいでも、いいんですか。と大承知だったと」
話は進み、常吉が二十、お雪が十七になる、来年の春を待ち、お雪が嫁に来ることになった。秋の取入れが終わって秋祭りがすむと、結納を交わし、村中総出になって、二人の新居を建てるように、頼母子講での相談もまとまった。
常吉とお雪には、喜びが重なった。その秋祭りには、この一帯の支配役人、小田さまが、わざわざ出向かれてくるという。
常吉の開墾を、表彰するというのだった。また、小田さまは祭りにも列席され、田舎の若い娘らが 踊を踊るのだが、その中心の座が、村一番の器量よし、お雪なのだという、二人には、晴れがましいことであった。
祭りが終わり近くなっても、常吉は、まだ、村一同の真ん中に立って、小田さまに褒められた晴れがましさに浸っていた。境内の裏手へとまわったのは、人のいない場所で、その余韻を、かみしめたかったのだ。ところが、そこには、ついさきほど、踊りをすませた、お雪がいた。お雪は、踊り疲れたのか、松の木の片すみに、一人離れて、座って息を整えていた。すらりと形よく伸びた両足の指先まで全身が桃色に染まり、肩で息をつく、その姿……。
お雪は、常吉を認めると、頭を下げた。常吉も頭を下げ、足早に、その場を去ったが、暗闇の中で、胸が、どきどきした。
「常、お雪ぼうとの縁談は、だめになった!」
秋祭りの五日後、お父うの絶叫が聞こえた。お父うは、その朝、太吉の家から使いのものが来て、小田さまも来ていられるというので、あわてて出かけていったのだが、昼過ぎになって帰ってきて、野良に出ていた常吉兄弟のところへ走った。畔に辿りつくか着かないかのうちに、もう大声だった。
「どうしたんけだ?」
と兄が、こちらも大声で聞きかえした。
「小田さまの、思い者に、なるんだと」
「小田さまの?」
「秋の祭りで踊ったろうが、身染められたんじゃ」
そこまで言ったとき、お父うはやっと、二人のそばへ辿りついた。息を切らして、顔が青かった。
「村祭りの夜から、話があったそうじゃが、お雪ぼうが、どうしても、うんと言わない。これはお雪ぼうの気性から、常との約束を気にかけているんだろうと言うので、おらが呼ばれた。向こうさまの指図どおり、おらたちは、お雪ぼうを、嫁にする気は、もうない。常も同じ気持ちから、今日、ここへ来ないのだと、怒ったように言った。小田さまが、そう言えといって、そばで聞いていなさる。米吉はじめ、親戚筋も、ぎっしり詰めている。しょうがないわな」
「それで?」
「お雪ぼうは、黙って、うつぶいた。それから一同が、やいのやいのと、いっせいに説得じゃ、おらはもう用がないので。途中で帰ったが、今頃はもう、決まっとることじゃろう」
「米吉(太吉とお雪の父親)どんは、約束したことを、どう言っとった?」
「米吉とお陸さんは、大喜びだわな。約束なんか知らん顔をしとる。なにしろ、妾(てかけ)でも、相手が相手、小田さまじゃもの」
これらは、すべて、父と兄の会話である。常吉は、黙って聴いていた。
常吉は、よかった、と思った。わずか八日間の、つかの間の縁組であり、破談だったが、これでよかったのだと思った。誤解されないように繰りかえすが、とっさに、本心からそう思ったのだった。お雪を不本意に思うのではない、その反対に、自分を不本意に思っていたからだった。
お雪ぼうが、自分などに嫁ぐのはもったいない、かわいそうだ。あのお雪ぼうなら、もっとふさわしい人がいるはずだと思っていた。
哀しさと嬉しさが、ないまぜになって、胸が乱れ、哀しいのか嬉しいのか分からないが、あの日、山の切り株で、二人きりで話した、幼い日の思い出は、夢だった、夢でありながら、宝物だった。言葉にできるものではなかった。
会話が一段落した父と兄は、もう、何も言えない。鍬を振るう常吉を、二人並んで見守っていた。
お雪は、小田さまの詰め所へ移った。村では、もう、奥さまであった。それまでは、一度も詰め所に来たこともなかった小田さまが、熱心に政務に通うようになった。
お雪も時おり、小女をしたがえて外へ出る。その姿を見た村人もいたけれど、常吉は見たことがなかった。その人たちの話では、奥さまなのに、お雪は、前と変わらない腰の低さで、出会うたびに挨拶をしてくれるというのだった。常吉は、それはそのはずだと思った。
「家も建ったことだし、常の、新しい嫁っこを、探すか?」
お父うは遠慮がちに、しかし何度もそう勧めるのだが、常吉はそのたび、首を横にふった。
「お父う、今年は、春から川筋の荒地を田んぼにする。嫁っこは、それからでいい」
常吉は。今度は、入会地にもならず、打ち捨てられたままの荒地を、開墾しようと企んでいた。小田さまと、今度はお雪さまの前で褒められるつもりだった。
常吉が、荒地開拓にかかって、一月もたたないうちに、お雪は鹿児島へ行くことになった。お雪の存在が、小田さまの本妻に知れて、『器量がいいのかは知らないけれど、行儀作法の心得もない女を、妾に置いておくわけにはいかない、本宅で、行儀作法のしつけをしましょう』ということに話がまとまったらしかった。
「お雪さまも、いよいよ街のお方になられるのかい」
と村人は言い合って、米吉の得意の鼻を、さらにうごめかせた。
お雪さまが突然亡くなって、村で葬るように、と亡き骸が下げ渡されたのは、その年の秋も深まるころだった。急な病で、手当ての甲斐もなく、ということだったが、身体はやせ衰えていたという。湯かんをすることになって、着物を脱がせていると、赤い絹糸で、十文字に結わえた、小さな包みがころころと転がり落ちた。
「なんだろう?」
とお陸は開いて首をひねった。なんだ、こんなものと思うものだが、大切そうに、上質の紙に固く包んであったから、曰くのあるものかもしれないと、捨てきれないで、家族の前へ、それを差し出した。
「こんなものがお雪の袂からなのか、どっからなのか、転がり出たんだ、どうしようか? 大事なものだったら、お棺に入れようか、それともお雪が、気まぐれでしたことかねえ」
「ああっ!」
それを見た瞬間、太吉が叫んだ。
「そうか、そうだったのか、お雪、おまえの本当の心は、そうだったのか!」
太吉の眼から大粒の涙があふれ出し、耐え切れず、拳を張って頭を垂れた。
「そうだったのか、お雪、かわいそうに、かわいそうに……」
と唇が動くたびに、涙がぽたぽたと、畳がわりに敷かれた莚へ落ちた。
「太吉、どうしたん? この白い小石は、なんなんだい?」
母親の問いに、太吉は答えなかった。
ただ、
「お母あ、それはお雪の、一生の宝物だ。きっと、お棺に入れてくれな。それを頼りに、お雪は、成仏するのだ……」
とだけ、涙涙に、言った。
その話が村に流れ、常吉の耳にも届いた。常吉の開墾地は、ほとんど終わりに近づいていたが、その日から、彼は開墾するのをやめた。野良には出るが、野良を終えると、一人ぶらりと外へ出て、どこをどうしているのか、夜明けまで帰らなかった。その年の秋祭りにも現れず、口数ますます少なくなった。精悍さだけだったその顔が、深く、凄惨味を帯びてきた。
彼は、自分が十三で、お雪が十の、あのときの、二人で遊び語り合った帰り際、お雪がずっと、持っていてくれた、あの丸い小石を手渡した場所へ、毎晩、一人立ち尽くし、お雪の魂を待ったのだった。滂沱と涙を流しながら、魂を待ち続けたのだった。
その冬は、南国には珍しく早く、山に雪が舞った。寒い夜だった。
「太吉、太吉」
と屋外から呼ぶ声に、
「だれだい?」
とお陸が戸を開けて顔を差しだすと、常吉の顔が、眼の前にあったので、
「ぎゃあ!」
と飛びのいて、腰が抜けた。
「太吉、常さんが、常さんが……」
這うように奥へ入りながら、不意の面会者に気兼ねして、弱弱しく息子を呼んだ。その声に太吉が出てきたが、常吉の顔を見ると、眼を光らせて横柄に言った。
「おう、常さんか」
常吉は、怒ったように睨む太吉へ構わず、
「太吉、おらは、これから、村を出て行く」
「うむ」
「太吉、おらは死んで、今、鬼になった」
「常さん、おらも一緒に行こうか」
なぜか太吉には、それが当然のように思えて、いつまでも村を出て行かない常吉に、怒っていたのだった。
「だめだ、お前は、一人しかいない跡取りだ。それに、おらには、考えがあってな、どうしても、ひとりで行かなければならん」
この夜の常吉は、雄弁だった。そのとき、その顔が、にやり、と笑ったように、太吉には見えた。
「それから、おらは、もう常吉じゃない、タカラベ、ミキだ。ユキ、ではなく、ミキ、だ」
「タカラベ、ミキけ、常さんは」
「おうさ、さらばじゃ」
財部美樹こと常吉は、侍言葉を残して、村を去った。
四
「まだ、帰らないところを見ると、才蔵は切られたな。とすると、まもなく追っ手が来るな」
美樹は、人が一人切られたかもしれないことを、まるで世間話のように、となりの小頭と話している。
久蔵は、やはりこの男は人でなしなのだ、と思わないわけにはいかなかったが、次の言葉に、のけぞってしまった。
「じゃあ、我らも出かけるか」
と美樹は、三十人ほどの手下どもを促したのだが、その口で、
「佐久間、佐久間」
と二十ばかりの若者を呼んで、
「われ、ステマガリせよ」
と言ったのだ。
ステマガリは島津捨て身の退却戦法だ。道端に、たった一人で残って追っ手を待ち受け、単独で切りあって時間稼ぎをする。それをしなさい、と美樹は佐久間へ命令したのである。つまり、ここで死になさいと命じたのである。
久蔵が、佐久間某という若者が、いったいどう反応するのか気をもんでいると、若者は、ただうなずいて、
「どれ」
と道の中央に座り込んだ。わらわらと二、三人が近寄っていって、佐久間の傍らに、太刀を置く。腰の弁当を置く。竹水筒を置く。弁当が三つほど置かれると、
「もう結構です。これだけあれば、餓鬼道界に落ちることもないでしょう」
と佐久間が意外と幼い声で言ったので、久蔵の目頭は熱くにじんだ。
「代え太刀も三本で結構です。せっ者の腕では、それ以上はむだになります」
「ハハハハ」
「おもしろいことを言うのう」
「たのんだぞ」
「最期に初めて三郎が、おもしろいことを聞かせてくれたわ」
一同が、立ち去ろうとしたとき、佐久間三郎が、あらたまったように、
「隊長、財部さま」
と呼んだ。
「なにか」
「道中、ご無事で」
「うむ」
さすがの財部も、われも無事で、と白々しい応対は返せない、うなずいて立ち去ろうとする。
久蔵は、九郎のもとへ走りよった。
「九郎どのも、頼む、と声をかけてやりなされ」
九郎は久蔵に促されるままに、
「頼みまする」
と頭を下げた。佐久間三郎は、それへ白い歯を見せた。優しい目だった。
ステマガリ、ステマガリの連続だった。追いすがる島津勢を、一人欠け、二人欠けながら、振り切って、金剛峰寺を目指していく。久蔵は、ただの殺人鬼、財部美樹の命令で、部下が簡単に命を投げ出すのか不思議だった。
信太山まで辿りつき、財部美樹が久蔵を隅のほうへ呼び、
「島田どの、ちと無心がある」
と言いだした。
「なんでしょうか?」
「すこし、拝借願えんか?」
金を貸せと言うのだ。
「兵が疲れている。今晩、久しぶりにいっぱい馳走してやりたい」
「おお、それはそれは、ほんの少しながら、どうぞ、どうぞ」
と有るだけの金を差し出すと、
「これは、多すぎる。これだけでよい」
とえり分けようとするので、
「なんの、全部」
と二人の間で、お金が押したり戻したりされたが、
「島田どの、全部使ってしまえば、九郎どのはともかく、お香さまは、どうなるのだ、金剛峰寺は女人禁制だぞ」
と美樹が不意に言い、それで二人の手の動きが、はたと、止まった。
『やはり、この男はお香さまが好きなのだ』と久蔵は思った。優しく、控えめで、たおやかな、お香さまが、自分と同じように好きなのだ。と複雑な思いが、胸を抉った。
「もっとも、金剛峰寺の僧と掛け合って、安全な尼寺を、紹介してもらうつもりだが、それにも、金がいるかもしれぬから……」
「はい?」
この男、お香さまに野心はないのか? と意外だった。もちろん自分にも、あるわけではないが。
久蔵からの寄付金、黄金二枚を、頭上にきらきら翳しながら、
「みな、九郎どのからの、差し入れである。今宵は宴を開こうと思う」
と美樹が、どら声を張り上げると、十七名の汚らしい顔が、目をテンにして、いっせいに黄金へ注がれ、それから、どっと歓声を上げた。
「小兵太は、惜しいことをしたのう」
「あの、呑ん兵衛の、うらめしそうな顔が、見えるようだ」
「うらめしやあ」
「おもてめしやあ」
「こわめしやあ」
小兵太は今日のステマガリとなって、命を捨てた。酒がなによりの好物で、この席につけないことが残念だろうと、わいわいがやがや、酒の肴にしている。
捨がワンワン、コチがにゃんにゃん、ひさしぶりの魚鳥の骨に、夢中でかぶりつき、それに、ぐびぐびむしゃむしゃと、かさつな、まるで獣と野武士の集団総会に久蔵はあきれるばかり、杯に手を伸ばす気にもなれない、隣に座って喉を鳴らしている小頭の袖を、そっと引いて、
「うむ?」
とふり向いた酔眼へ、
「財部美樹どのは……」
と問いかけた。
「隊長がどうしましたか?」
「どこに魅力があるのですか?」
「魅力って?」
「みんな命令のままに、死んでいくではありませんか」
「それが?」
「強制でもないように、思いますが」
「ああ、隊長は……」
と小頭は話し始めた。こんなふうに、理路整然と説明したわけではないが、隊長は心の奥に恩愛を持った人である、と言う。一日会えば一日の恩愛を感じ、二日会えば二日の恩愛を感じとる、その恩愛がきわまってくると、もうこの人を離れることはできない、そんな人だ、と語った。
「ステマガリは、名誉なんです、隊長に、われは死ねる男だと認められたのだから……。ああ、あれを見てください」
と小頭は杯を挙げて美樹のほうをさした。美樹は、げらげら笑いながら、呑んでいたが、杯がゆれて、時おり酒がこぼれるのだった。
「あれは、三郎、あれは小兵太に、杯を差しているのです」
「ほんとうかしらん? ただ、酔っているだけのようですが」
「みな、そう言います、しかし、われらは、そうは思わない。われらが、そう思わなければ、それでいいのです」
そう言われれば、もう二十人近くが死んでいる。それほど、薩摩軍団の追跡は猛烈だった。しかし、命を惜しんで落伍するものがいない、さらに、残った十七人のうちの五人は、途中から部隊に加わった。馬方だったり、荷物運びに借り出された百姓だったりしたが、進んでこの絶望の一隊に、志願してきた。美樹の恩愛に触れたというのか、不思議なことであった。
「久蔵どの、お香のかたが、呼んでおられる」
誰かの声がして、久蔵が飛んでいくと、
「お礼に、ひとさし、舞おうと思います」
と言われる。
「あのう……、この者たちに、お香さまの舞は、分からないと思われますか」
「でも、わたしには、これしか、できませんから」
この人は、どこまで捨身の人だろうかと、久蔵は胸が詰まった。もう反対する理由などない、そのことを美樹に告げると、
「これは……」
と驚いたようだったが、
「お香さまが、踊りを見せてくださるぞ」
と言って支度をさせたのだった。
笙や鼓の伴奏なんか、もちろんないのだけれども、それでも、お香さまの舞は優雅であった。九郎のそばで久蔵が見惚れていると、芸術に縁のない輩はやはりいるもので、杯をカチカチとふれあわせたり、歯に挟まった食い物をせせりだそうと、歯音を鳴らす不謹慎者がいたりする。無礼さに、思わず眉がひそまるのだが、ここは我慢、我慢なのだった。
突然、シーンと、打ち水あとのように静まり返った。その中で、嗚咽に咽ぶ声がかすかに聞こえる。そっと振り返ると、美樹が、あの、財部美樹が、滂沱の涙にくれて、お香さまの舞姿を見つめている。
お香さまの舞は、喜びの舞である、泣くような舞ではない。
「なぜ、泣くのか。美樹は、この舞を知っているはずだが」
と久蔵は不思議に思った。
五
金剛峰寺の裏門近くが、最後の決戦となった。美樹もこのことは覚悟していたらしく、一同に、明日はいよいよ金剛峰寺突入と宣言し、
「この戦いの目的は、九郎どのを金剛峰寺へ、無事に送り届けることにあった。薩摩も面目にかけて、決死の兵を集めて待ち伏せているであろう。みな、死ねや。あしたは、もう逃げるのではない。みな、一人一人がステマガリとなり、九郎どのを門内に入れることだけをせよ、門が閉まれば叩き壊せ。今までご苦労であったが、あしたはその命、おれに預けてくれい」
と言った。決して言葉巧みではないが、その紋切り型の言葉と対照的に、顔には誠意があふれ、一同はそれに奮い立った。
「お香さまは……、寺は女人禁制だが、かまうことはない、九郎どのと一緒に、母子ともども、門内にお連れするんだ。島田久蔵どの」
「はい」
「あなたは、誘導役だ、お二人のこと、よろしく頼みます」
「はい」
久蔵は、このころは美樹の魅力が分かった気がしていた。この男にはうそがない、そして、長も短も取り混ぜて、こちらへ不思議な力で迫ってくる。サムライであり、男なのである、自分は今、彼の一兵卒のように受け答えしているが、それになんの違和感もない、この人の指図に、命を捨てよう、そんな気になっているのである。明日は、この仲間とともに死のうと思った。
剽悍決死の士と剽悍決死の士、秋風の吹く京の白昼に、砂煙を巻き上げて、最後の戦いが始まった。馬に触れれば馬を切り、人に触れれば人を切る、どちらも薩摩隼人の誇りにかけて、切り結んだ。だが、人倫の大義、人として生まれ、人として生きる、悠久の大義を、美樹部隊は背負っていた。その背には、お香のかたと九郎の君の影が一緒になって戦っていた。一対十、いや、一対二十かもしれない戦いに、美樹部隊は、ひるむことをしなかったのである。
しかし、激闘は終わろうとしていた、
久蔵も左腕を肩から落とされ、それでも必死に、右手に剣を構えていたが、薩摩兵は、久蔵を迂回して九郎に迫った。お香さまは、左手で九郎を抱いて、右手に懐剣を、そして門際に追い詰められていった。
裏門がいっぱいに押し開かれて、金剛峰寺の僧兵が、いっせいに飛び出してきたのは、そのときであった。
「引けっ、引けっ、刀をおさめよ」
僧兵側と薩摩兵が同時に叫んだ。さすがの薩摩も青くなった。金剛峰寺の神兵に手を出すのは、日本を相手にすることになる、仏敵になりさがるわけにはいかなかった。
金剛峰寺の門内は、静かだった。その庭に筵が敷かれ、美樹部隊の兵士が累々と横たわっていた。酸鼻無残なその中に、財部美樹の姿もあった。
美樹には、まだ、かすかに息があった。
「そなたが、隊長であるか」
やがて、円卓上人、裏門を開かせて、僧兵を助勢に駆けつけさせた高僧が、静かに歩み寄って美樹の横に立った。
「財部美樹と申します」
かろうじて浅手の、兵の一人が紹介し、上人へ、いきさつを語った。
一部始終を聞いた上人は、再び美樹のほうへ、こう言った。
「財部とやら、おまえは、まことに、よい家来を持った、よい家来を持った、武将としてよい生涯であったと、うらやましく思う」
それに、何か答えようとした美樹を、上人は、語らずともよい、身体に障る、と止めた。
「黙っていてもよい、まだ言い残したい者がおろう、よく聞け」
この人は、もとは将軍家につながる、高名な武将だった。その方が、境内から、戦う美樹の一隊を見て、驚嘆した。そして、行け、あのものたちを救え、と号令した。あのものたちは、見事ではないか、まことのサムライではないか、あのものたちを、殺してはならぬ、とも言った。上人は、そのとき、武将の顔に戻って、頬が、紅潮していた。
上人は、美樹に続けた。
「生き残ったそなたの家来どもは、僧兵として当山で預かる。お香とやらも、ここへ入れた。このものは女人ではない、弁天様じゃ、神じゃから、一時ここへ入れた、おまえの言うとおり、尼寺で保護する、安心して、成仏いたせ」
そして、お香と九郎を呼び寄せて、こう言って立ち去った。
「いとまごい、いたせ。今日はまことに、よい武将に出会った」
「財部美樹、ありがとうございました」
「ああ、お香さま、ご無事でしたか」
「あなたの、おかげです」
「あなたさまの、踊りは、美しゅうございました、秋祭りの……」
そういって、美樹が、わずかに手を動かした。彼に、そんなつもりはなかったのだろうが、お香のかたは、迷わず、その手をとって頬にあてた。
「秋祭りの、お雪の、踊りのようで、ございました……、常吉は……」
なにか意識が混濁し始めたらしい、秋祭り? お雪? そんなの、だれも知らないし、常吉っていったい誰だろう、しかし、お香のかたは、そんな美樹の顔をじっと見ていた。そして、ささやくように、言った。
「常吉さま、ここにおります、お雪は、ここにおりますよ」
その瞬間、美樹の首が、がっくり垂れた。垂れながら、お香のかたの手を、ぐっと、万感の思いを籠めたかのように、握り締めたという。
「お雪に、なりとうございます」
美樹の死体に、お香のかたは、泣き崩れた。
秋の空には鮮やかな、光芒が射していた。来迎の、絵図のようであった。(終わり)
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